『オオカミの誘惑』
(늑대의 유혹)

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インターネット小説をベースに作られた映画を称して“虚接した映画”という表現をしていいのか分からないが、強引なストーリー展開のものがほとんどだ。もちろん充分理解し、ある程度は共感もする。だが、現実では絶対に起こりえないし、もし起こったとしても現実離れしている。これらの映画のほとんどは、適当なファンタジー的要素を組み合わせ、一つの話を完成させた映画ばかりだ。最後の帳尻を合わせて、どうにか映画を完成しようという目的意識が見え見えである。

ネット小説の映画化に対して、単にああだこうだと言うつもりはない。それらの映画のほとんどが興行的に大成功を収めたことで、それほど観客が(ある程度は)望んでいたという意味にもなる。偶然にも原作の映画2本が並んで劇場街を飾る。ソン・スンホン、チョン・ダビン主演のロマンティックコメディ『あいつはカッコよかった』と、チョ・ハンソンとカン・ドンウォン、イ・ジョンア主演のロマンス『オオカミの誘惑』。『猟奇的な彼女』『同い年の家庭教師』『愛しのサガジ』など、ネット小説をベースに企画された映画が、劇場街を占領した時を詳記すれば、活気を与えているのは明らか。しかし、“秀作”と“駄作”の差は歴然としているので(もちろんこれまた思うによりけりだ)、それは単純に興行性とは比較できない。

しかしもう、そういった不安はしばらく放っておいても良いのではなかろうか。なぜなら、その不安を払拭した映画が『オオカミの誘惑』だからだ。少なくとも、ネット小説を映画化した今までのどの作品よりもマシである(という事実を認めるところだ)。単にイケメン2人を使って、女子学生を“エクスタシー”に落とし入れることは少なくないが、『オオカミの誘惑』は、最低限の小道具を揃えて、映画を完璧に演出している。何よりも、ネット小説の象徴である顔文字とチャット用語がほとんど使われていないということに、一番大きな意義が置かれている。しかし、それ(だけ)が全てではない。指摘すれば、ネット小説をベースに劇化された映画は、10代の文化を代弁しているように見せかけて、単なる茶番劇に終わるものがほとんどだった。どんなに“ロマンティックコメディ”と謳っていても、始終一貫して笑わせることに必死になっていて、彼らの文化を表現するという目的は、瞬く間に消散していくのである。

初めてロマンス映画を演出したキム・テギュン監督がそうだったように、『オオカミの誘惑』の魅力は、徹底して10代の感性で満たし、3人の男女の恋や痛み、そして許しの場を彼らなりの方法で見つけるというところにある。彼らの行動や言語が一つの象徴となり、映画を動かして共感させるようにするということ。ハツラツとした10代のアクション(けんか)シーンを通して痛みを描写し、死を通して仲直りすること、人を許すということを知り、行き違った運命の悪戯を通して愛を学ぶなど、現在の10代の姿そのままを見せてくれる。「いきなり灯りが消えたら見えなくなるけど、初めから暗ければ見えるだろ」という劇中のカン・ドンウォンの意味深な言葉は、彼らの断面をそのままを表わしている。恋を実らせるため、痛みを癒すための道具として、過度なアクションシーンが少々強引だが、「子供達が傷つけ合わないように、己の悲しみを隠そうと必死な姿がとても美しかった。それが大人にはできない本当の愛だと思う」という、キム・テギュン監督の言葉で、充分な説明にはならないだろうか。

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