<W解説>韓国・ソウルの墓地に眠る日本人、浅川巧とは?(画像提供:wowkorea)
<W解説>韓国・ソウルの墓地に眠る日本人、浅川巧とは?(画像提供:wowkorea)
日本による植民地時代に朝鮮半島の緑化に尽力した日本人、浅川巧(1891~1931年)の没後92年の追悼式が今月4日、韓国・ソウルの公共墓地、忘憂里公園墓地で執り行われた。韓国と日本の関係者約50人が出席した。浅川巧とはどのような人物なのだろうか。

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浅川巧は山梨県北巨摩郡甲村五丁田(現・北杜市)生まれ。県立農林学校で学んだ後1909年に秋田県大館営林署に就職。その後1914年に兄の伯教(のりたか)を追って朝鮮半島に渡り、朝鮮総督府農商工部山林課林業試験場に就職し、養苗や造林研究に従事した。朝鮮半島の荒廃した山々の緑化に努める中で地元住民との関わりを大事にしたという。

小学校の教師だった兄の伯教は、朝鮮美術の魅力に惹かれ、巧より一足早く朝鮮半島に渡った。1913年に京城(現・ソウル)の尋常小学校の教員となった。伯教は骨とう品店などを数多く回り、さまざまな朝鮮半島の美術品に触れた。ある日、古道具屋の前を通った際、明かりに照らされた朝鮮白磁が目に留まり、くぎ付けになったという。やがて伯教は朝鮮陶磁器の世界にのめり込んでいき、研究に専念するようになった。

弟の巧もまた、朝鮮の人々が使う工芸品や雑器を自身の日常生活に取り入れていた。日本統治によって壊されていく朝鮮文化の保存の必要性を感じていた巧は、兄の伯教、それに伯教と親交があった「民藝運動の父」柳宗悦の3人で、美術館の設立に尽力した。当初、3人への風当たりは強かったというが、1924年に李朝王宮跡である景福宮内に朝鮮民族美術館を完成させた。巧と伯教は自らが収集した朝鮮白磁など3000点余りを同館に寄贈した。

巧は1922年、京城の郊外に林業試験場が設けられると、「朝鮮松の露天埋蔵発芽促進法」を開発。植民地化によって荒廃に拍車がかかった山々の植林・緑化に功績を残した。巧は朝鮮に渡ってまず、その土地の言葉を覚えることから始めたという。「埋蔵発芽促進法」も朝鮮の風土・文化を尊重し、理解しようとする巧の基本的な姿勢から生み出されたといえよう。

朝鮮の山林・文化保存に尽力した巧は1931年4月、風邪をこじらせて京城(現・ソウル)の自宅で40歳の若さで急逝した。遺言に従い、棺は朝鮮の地に埋葬された。巧の訃報が村々に広まるや、地元の人たちは次々と別れを告げに集まったという。

2012年6月には巧の半生を描いた日本映画「道~白磁の人~」(高橋伴明監督)が上映された。朝鮮の山に緑を取り戻すため朝鮮にやって来た巧と、同じ使命感で結ばれた朝鮮人のチョンリムとの国境と時代を越えた友情を描いたヒューマンドラマで、巧役は吉沢悠、チョンリム役はペ・スビンが演じた。映画は江宮隆之氏の小説「白磁の人」を原作に制作された。

また浅川兄弟を顕彰する「浅川伯教・巧兄弟を偲ぶ会」は巧の生誕130年・没後90年の2021年、巧が遺した14冊の日記帳(1922~23年)を基に浅川兄弟の生涯と業績を描いた学習漫画「評伝 浅川伯教と巧~十四冊の日記帳」を発刊。浅川兄弟の故郷、山梨県北杜市内の小学校で副読本として活用されている。

今月4日に開かれた追悼式で、「偲ぶ会」のイ・ソンシク会長は「浅川氏の気持ちを日本人もよく知り、韓国と日本が良い友人として新たな道を歩んでいけるきっかけになるよう願っています」と語った。また、ハム・ジェギョン幹事も「韓日が政治問題で騒々しくても、民間交流は続けなければなりません」と述べた。

この日の追悼式には韓国政府が先月、元徴用工訴訟問題の解決策として発表した「第三者弁済」関連の実務を総括している「日帝強制動員被害者支援財団」のシム・ギュソン理事長も出席し、追悼の辞を読み上げた。シム理事長は「韓国は現在、日本との問題で過去と未来が戦っているが、朝鮮と日本の間で葛藤したあなたの人生から小さな勇気を得ようと思います。堂々と生きて逝ったあなたを『ともしび』だと考え、私も険しく狭い山道を歩いていくことを誓います」と述べた。

韓国紙の朝鮮日報によると、主催した顕彰会は追悼式の通知を出していなかったが、墓地があるソウル市中浪区在住の日本人たちもこの日、追悼に訪れたという。

巧の追悼碑には「韓国の山と民芸を愛し、韓国人の心の中に生きて逝った日本人、ここ韓国の土になる」と記されている。

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