1965年6月22日、長い交渉の末に日韓基本条約が結ばれました。(写真提供:ロコレ)
1965年6月22日、長い交渉の末に日韓基本条約が結ばれました。(写真提供:ロコレ)
1965年6月22日、長い交渉の末に日韓基本条約が結ばれました。日本は無償3億ドル、有償2億ドルの合計5億ドルを植民地支配の賠償金として韓国に支払うことになりました。1ドル360円の時代なので、本当に巨額でした。


■賠償金を生かして経済発展

 日韓基本条約では「植民地時代のすべての問題が清算された」とされており、日本は、今後韓国からの請求権はいっさい生じないという立場を今も守っています。

 一方、朴正熙(パク・チョンヒ)は日本からの賠償金を生かしました。インフラ整備の建設資金に当てたのです。

 今の韓国で経済成長の立役者と評価されている朴正熙。彼は日本からの賠償金を有効に使って経済成長を促したのです。

 しかし、朴正熙は民主勢力を弾圧して多くの若い活動家を死刑に処した独裁者でもありました。

1973年8月に「金大中(キム・デジュン)事件」が日本で起きました。大統領選挙で朴正熙をあと一歩で破るところまで追い詰めた金大中が、東京のホテルで白昼堂々と拉致されたのです。

 この事件は政敵を葬るために朴正熙が指示を出したものでした。

 しかし、アメリカの干渉もあり、朴正熙は金大中の命までは奪いませんでした。


■朴正熙が暗殺される

 金大中事件の翌年には朴正熙自身が命を狙われました。8月15日にソウルで行なわれた独立記念日の式典で、会場にまぎれこんだ在日韓国人の青年が朴正熙に向かって銃を撃ったのです。

 その弾が朴正熙の妻に当たり、彼女は亡くなってしまいました。

 このときは命拾いをした朴正熙ですが、残された命は5年だけでした。1979年10月、彼は宴席の最中に部下によって射殺されました。

 軍事独裁政治を主導した朴正熙の死によって韓国は一時的に民主化されると予測されたのですが、陸軍司令官であった全斗煥(チョン・ドゥハン)が実権を握り、軍部出身者による独裁体制は変わりませんでした。

 容認できない市民は直接行動を起こしました。

 1980年5月、全羅(チョルラ)南道の道都・光州(クァンジュ)で、決起した市民が官庁を占拠しました。すかさず全斗煥は軍を投入して多くの市民を虐殺し、韓国現代史に汚点を残しました。

 その後も全斗煥政権が続きました。

 1980年代前半には、日本の教科書の歴史記述をめぐって韓国が反発するという時期もありましたが、1984年9月に全斗煥は韓国の大統領として初めて来日し、中曾根首相との間で首脳会談を行ないました。

 以後、日本と韓国の間で政治指導者の相互往来が定例化するようになったのです。


■日韓関係が大幅に改善

 1987年6月、アジアの歴史上でも「画期的」と言えるほどの劇的な民主化が韓国で実現しました。

 当時、ソウル大学の学生が拷問によって死亡したことがきっかけとなって、全土を巻き込む民主化運動が起こっていました。

 全斗煥は軍の投入を決断しそうになったのですが、翌年にはソウル五輪を控えていたこともあり、寸前で思いとどまりました。

 もし軍を投入して市民が虐殺されれば、アメリカが許さなかったでしょうし、オリンピックも開催できなかったはずです。民主化が達成されたのは、まさにオリンピックのおかげでもありました。

 そのオリンピックは1988年9月にソウルで開催され、成功させた韓国は国際社会で認知度を大いに高めることができました。

 以後も順調に経済を発展させていた韓国ですが、1997年には深刻な経済危機に見舞われました。

 しかし、翌年2月に就任した金大中大統領の大胆な経済構造改革が功を奏し、韓国経済はV字回復を果たしました。

 経済政策で成果を達成した金大中大統領は、日韓関係の改善にも意欲を示しました。1998年10月に来日した彼は、小渕恵三首相との間で「日韓パートナーシップ宣言」に合意し、日韓双方が未来志向で親密な関係を築いていくことが約束されました。

 この宣言は画期的でした。

 戦後初めてと言っていいほど、日韓関係は最良の方向に歩みだしたのです。

 それにともなって、韓国側で禁じられていた日本の大衆文化が解禁されたり、両国間で留学生が増えたりしました。


文=康 熙奉(カン・ヒボン)
出典/『宿命の日韓二千年史』(著者/康熙奉〔カン・ヒボン〕 発行/勉誠出版)
(ロコレ提供)

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