故キム・デジュン(金大中)元韓国大統領(画像提供:wowkorea)
故キム・デジュン(金大中)元韓国大統領(画像提供:wowkorea)
毎回、不幸な結末を迎えてきた韓国の元大統領たち。先日、元大統領イ・ミョンバク(李明博)氏の有罪判決が確定し、収監が決定した。これにより韓国大統領経験者らは全員、

1)暗殺・自殺で死亡する(朴正熙、盧武鉉)、
2)クーデターや革命や弾劾によって退任を余儀なくされる(崔圭夏)、その後に収監される(尹潽善、朴槿恵)、その後に亡命する(李承晩)、
3)任期満了の退任後、有罪となり逮捕収監されるか(全斗煥、盧泰愚、李明博)、
4)退任前後、息子が有罪となり逮捕収監されるか(金泳三、金大中)、
といった不幸な末路を歩むと言われている”法則”並みのジンクスが再確認された。

 それでは何故、”民主主義”においても、社会経済面においても、”先進国”として成長した韓国においてこの様な事が繰り返されるのだろうか。韓国の「政権交代」観は一般的な民主主義国家における政権交代とは言い難い。むしろ儒教的な思想基盤を背景とした「革命」を引きずっているからではないかと考えられる。

 儒教思想では国家・天下を治める君主を、有徳者の中から天が選んで命を下して”天子”とするものの、天下国家を治める資格(徳)と能力を失った場合は、天が別の有徳者を選んで”天命”を下して新たな”天子”とする。

 これを「革命:命(天命)が革(あらた)まる」と呼んだのだ。そして新君主の新政治・新政権にとって、自身らが道徳的存在たり得る為に、また政権交代の正統性を成り立たしめ得るが為にも、旧君主・旧政権とは天命を失った”反道徳的”存在になるが故にその身内や佞臣とされた側近・重臣らごと粛清されるべき対象とされてしまう。

 ちなみに1990年代初めにシンガポールの故リー・クワンユー(李光耀)元首相は「フォーリン・アフェアーズ」誌上で、アジアの歴史や文化において、西洋型の自由民主主義や市場経済はアジアに馴染まず(普遍的なものでなく)、アジア独自の国家体制やアジア型開発独裁が必要だとしたと主張した。

 これに韓国の故キム・デジュン(金大中)元大統領は反論して、アジアにおいても天が君主を選ぶと言う政治文化が有り、この天の選択や意思とは民意と言い換えて解釈すべき故、アジアでも普遍的な自由民主主義や市場経済が成立し得ると主張した。

 だが所謂”欧米型の政権交代”では憲法や法律が定めるルーティンワーク(定期的に生じるイベント)に過ぎないものに対して、故リー元首相の主張の如く、韓国において政権交代とはどうしても伝統的な(儒教的文脈における)「革命」観を捨て切れてないのではないか。

 つまり法が定めるルーティンワーク(定期的に生じるイベント)ではなく、政権交代とは反道徳的存在故に失権した(政権交代を招いたのだ)と言う感覚、そしてその感覚が故に、旧政権の大統領とその身内や政権関係者が粛清されるべき対象としか見えなくなってしまう感覚が根強く残っているのではないかと言う事だ。

 またこの感覚は他国に対しても、特に関係の深い国に対しても同様に抱いてしまうようだ。先日の日本の政権交代を機に、菅内閣との交渉(日韓関係改善)に期待していたものの、安倍内閣と同じか、それ以上の対韓強硬(嫌韓)政策なので失望したと言う韓国の政権・与党の関係者のコメント、またメディアの論調が散見された。

 つまり反道徳的存在故に失権した安倍政権の逆政策(親韓政策・姿勢)を選択する事で、菅政権は道徳的存在たり得る、政権交代の正統性を成り立たしめ得ると言う感覚が無意識的にあるのだ。そして今日、トランプ政権からバイデン政権への政権交代をなしつつある米国(の対韓政策)に対しても同様の視点から、在韓米軍の費用負担問題を始めとした様々な政策について、期待的な見通しを展開している。

 日本は、こうした韓国の「政権交代」観を踏まえた上で、日本とは極めて異質な考え方までを理解すべきである。その理解が足りない限り、未来志向の日韓関係は「砂上の楼閣」に過ぎない実例をたった今、目撃しているからである。

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