黒澤監督の11作目「羅生門」(1950年)から、遺作となった30作目「まあだだよ」(1993年)まで、スクリプターやプロダクション・マネージャーとして携わった野上照代さん(83)が、特別展に合わせ韓国を初訪問した。
インタビューで渡された野上さんの名刺には、「黒澤明創作ノート~七人の侍編集委員」と肩書きが記されている。野上さんによると、黒澤監督はいつも作品の脚本を書く前に創作ノートを作っていた。「映画ごとにたいてい大学ノート2~3冊にアイディアをまとめていたのですが、『七人の侍』(1954年)は6冊になりました。監督が亡くなってから見つかったんです」。
創作ノートには、せりふやアイデア、トルストイの小説からの抜粋など、さまざまなメモが記されていた。特に人々の関心が高い「七人の侍」の創作ノートが、来月ごろにも日本で出版される。
野上さんは、黒澤監督は映画人生で数度の危機に直面したが、そのたびに乗り越えたと振り返る。「羅生門」の次に撮った「白痴」(1951年)はヒットせず、映画を撮るのが難しくなったが、「羅生門」がベネチア国際映画祭でグランプリを受賞したおかげで、再起を図ることができた。
世界的巨匠となった後も、試練が続いた。ハリウッド映画「トラ・トラ・トラ!」を準備している最中、精神を病んでいるとして米制作会社から監督を解任された。ハリウッドの制作スタイルとぶつかり、当時は酒をたくさん飲み乱暴なふるまいをしたともいわれる。健在ぶりを証明しようと「どですかでん」(1970年)を撮ったが、興行成績が芳しくなく、ついに自殺まで試みた。ロシアからのオファーで「デルス・ウザーラ」(1975年)を合作し、復活を果たした。
ゴッホの絵は今でも高値で売れるが、映画は作った時点でチケットを売らねばならないと野上さん。黒澤作品で損害を出したものはほんの数えるほどで、作品性と大衆性を兼ね備えた才能豊かな監督だったと語った。
「黒澤監督は冗談めかして『僕には幸運の女神がそばについている』と言ったりもしましたが、非常に努力家でした。映画のためにすべての時間をつぎ込み、神経と思考が映画に集中していました。波乱万丈な人生を経験しましたが、常に突破口を探し次の作品を出す。普通の人なら投げ出していたでしょう」。
最も高く評価している映画を尋ねる質問には、「七人の侍」と「赤ひげ」(1965年)は本当に傑作だと答えた。また、あまり知られていない作品からは、デビュー作「姿三四郎」(1943年)を挙げた。新鮮さがあり、監督の性格もよく表れていると評する。
黒澤監督はどんな人だったのかと聞いてみた。野上さんは、「撮影では映画にのめりこむあまり大声でどなりつけることもあったが、心の温かい人」と話し、監督が常に口にしていた言葉で返答に代えた。「僕を知りたければ僕の映画を見ろ。すべては映画の中にある」。
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