「従北の反国家勢力を一気に剔抉(てっけつ)し、自由憲政秩序を守るため、非常戒厳を宣布します」
2024年12月3日午後10時25分ごろ、当時の尹大統領は緊急談話を発表した。平穏と安寧を祈って新たな年を迎えようとしていた市民にとっては青天の霹靂(へきれき)だったに違いない。
戒厳という言葉の意味をくみ取る間もなく、「政治活動禁止」「言論・出版制限」「処断」など、暗い歴史の中に埋もれるべき言葉が「戒厳司令官の布告令」という名の下、再登場した。
銃や防弾ヘルメット、暗視装置などで武装した戒厳軍がヘリコプターなどで国会に投入された。
4日午前0時7分ごろ、国会に入った戒厳軍は国会議事堂の玄関から進入がままならないと、銃器などで窓ガラスを割り、同0時45分ごろ、議事堂内に入った。
戒厳軍の前に残る障害物は国会関係者と議員の補佐官らが急きょ築いたバリケードだけだった。
幸い、戒厳軍に民主主義が踏みにじられるのはここまでだった。
戒厳軍が議事堂の中央ロビー前まで入った一触即発の状況で、国会の戒厳解除の要求決議案が可決された。禹元植(ウ・ウォンシク)国会議長が可決を宣言した時刻は同1時1分だった。
警察の封鎖を突破して国会の壁を乗り越え、本会議場に駆け付けた野党を中心とする約190人の与野党議員が採決に参加した。反対票はなかった。
憲法による国会の戒厳解除の要求案が可決したことが公表されると、戒厳軍の動きはうそのように止まった。
戒厳軍は同1時半ごろ、国会から撤収し始め、2時間後の同午前3時半ごろには完全に姿を消した。
当時の尹大統領は戒厳軍が国会から撤収した後もしばらく沈黙を守ったが、同4時27分ごろ、生中継を通じ、戒厳を解除する談話を発表した。
約40年前に退行するかのようだった韓国の民主主義が崖っぷちからはい上がった、奇跡のような6時間だった。
しかし、その後も民主主義は脅かされた。
12月7日に国会の弾劾採決を控えて発表した談話で謝罪を表明した当時の尹大統領はわずか5日後にその言葉をひっくり返した。12日に発表した談話では、憲法に基づいた大統領の決断と統治行為は内乱に当たらないとし、戦う姿勢を示した。2日後の14日、国会で弾劾訴追案が可決した後の談話でも「決してあきらめない」と表明した。
同時に公邸に閉じこもり大統領警護処の警護官を私兵化し、検察・警察・高位公職者犯罪捜査処(公捜処)の捜査に対抗した。
韓国社会は数多くの危機に揺れながらも、それを乗り越えてきた。
国会は2度の弾劾案を発議した末に尹氏を弾劾訴追し、憲法裁判所は長い審理を経て今年4月4日に罷免を決定した。その後、大統領選を経て、李在明(イ・ジェミョン)大統領が国民に選ばれた。
公捜処は2度の令状執行の末に今年1月15日に公邸で、尹氏を拘束し、逮捕した。
尹氏は3月8日、地裁の逮捕取り消しの判断で52日ぶり釈放されたが、李政権発足後に設置された特別検察官により7月10日に再び逮捕された。
こうした危機を乗り越えた一連の過程では、韓国という共同体が培ってきた底力が発揮された。
非常戒厳が宣言されると、市民らが国会に駆け付け、戒厳軍に対抗して進入を阻止することに力を添えた。
自宅にいた市民らも「時代の証人」になるとの覚悟で、早朝までテレビとユーチューブで国会の状況を見守り、グループチャットで状況を共有した。
抗議する市民に積極的に対応せず、撤収しながら頭を下げて謝罪する戒厳軍の姿からも、憲法の価値を重視する「制服を着た市民」の可能性を垣間見ることができた。
素早く戒厳解除要求案を可決した国会、混乱の状況の中でも全員一致で罷免を決定した憲法裁判所など、主要憲政システムもしっかり役割を果たした。
ただ、市民が見せた底力とは裏腹に、非常戒厳の事態は韓国民主主義の基盤が依然、ぜい弱であることを露呈した事件と言える。
指導者1人の誤った判断で民主化以降、37年の民主主義の歴史が一瞬にして退行し得ることが分かったからだ。
李大統領は就任直後、戒厳事態による不安を解消し、墜落した国格を正すため、経済・外交活動で総力をあげている。
韓国の総合株価指数KOSPIの上昇、慶州でのアジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議開催などで、戒厳の嵐から短期的には抜け出したと言えそうだ。
現在、不幸な事態が繰り返されないように、「審判の時間」が続いている。
特別検察官による捜査で、尹氏と戒厳の共犯、国政介入疑惑を受ける尹氏の妻、金建希(キム・ゴンヒ)氏らの裁判が続いている。早ければ来年1月から被告人に対する一審の結果が出るとみられる。
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