尹は中華民国時代の満州・間島の生まれ。京城府(現・ソウル)のヨンヒ専門学校(現・延世大学)を卒業後、1942年3月に日本に渡り、立教大学文学部英文科専科に入学した。その後、同志社大学文学部英文科専科に編入した。
尹は同志社大在学中、ハングルで詩や日記を書きためていたことが朝鮮の独立運動にかかわったとの疑いをかけられ逮捕された。しかし、これは尹の罪状の一部を過大に喧伝されたものであるとの指摘もある。尹の逮捕状は3つあったとされ、「西洋思想が濃厚」というのが主な理由だったといわれている。1944年2月、尹は京都地裁で「日本国家が禁止する思想を宣伝・扇動した」として懲役2年の実刑判決が言い渡された。その後、尹は福岡刑務所に収監され、翌年の1945年2月、27歳の若さで獄死した。
尹の死後、1947年に韓国メディアのキョンヒャン(京郷)新聞に、尹が立教大在学中に創作した作品「たやすく書かれた詩」が紹介され、これを機に、尹について広く知られるようになった。また、翌1848年には詩や散文を集めた「空と風と星と詩」が刊行され、民族詩人、抵抗詩人などとして認知度が高まった。尹の詩は日本語のほか、英・独・仏・中・露などの各言語に翻訳されている。
尹の作品は韓国の民族主義教育に取り入れられ、若者たちにも認知度が広がった。かつて、ある文学評論家が、韓国の20代の若者を対象にアンケート調査を行い、韓国の詩人の中で好きな3人を挙げるよう求めたところ、3人中、1人が尹の名を挙げた。今や、尹は、韓国では知らない人がいないほど、広く認知されている。
京都造形芸術大学(現・京都芸術大学)の高原キャンパス内には、尹がかつて下宿していた「武田アパート」の跡地がある。武田アパートで下宿生活を送っていた尹の様子を、アパートを訪れた尹の叔父はかつて「読書にあまりに熱中しすぎて顔色が青白くなっているのを私は非常に心配した。六畳部屋で寒さも忘れて深夜2時まで読み、書き、構想し…。これがその日その日の課題であるかのようだ」などと証言している。尹をしのび、2006年にはキャンパス内に尹の作品「序詩」の詩碑が建立された。
尹が学んだ同志社大の今出川キャンパスにも詩碑があり、卒業生らでつくる「尹東柱を偲(しの)ぶ会」と「同志社コリア同窓会」は毎年、尹の命日(2月16日)に合わせ、献花式と講演会を開催している。
これまで、尹の詩碑や記念碑は、ゆかりのある京都に集中していたが、このほど、尹がかつて学んだ東京の立教大に新たに記念碑が設置された。今月11日、池袋キャンパスで除幕式が開かれた。西原廉太郎総長は「80年の歳月を経て尹東柱詩人が立教大に戻ってきた」と記念碑の完成を喜んだ。イ・ヒョク駐日大使もあいさつし、「日韓国交正常化60年の年に設置された記念碑が、尹東柱の文学と生涯をたたえる存在を越えて、両国の和解や協力に繋がる架け橋になることを願う」と述べた。
尹は1942年4~12月の約8カ月間、立教大で学んだ。在学中、「たやすく書かれた詩」など5編の詩を残している。韓国紙の中央日報によると、同大異文化コミュニケーション学部の李香鎮教授の講義を通じて尹について知り、感銘を受けた学生たちが、尹生誕100周年の2017年から記念碑の設置に向け活動を開始。同年に開いたシンポジウムでは碑の設置費用をつくるために募金活動を行い、約70万円が集まったという。その後、後輩たちや大学がその思いを受け継ぎ、日韓関係の悪化や新型コロナ禍などを乗り越えて、このほど、ようやく建立された。
記念碑には尹の写真とともに、「たやすく書かれた詩」の原文や日本語訳が刻まれている。また、スマートフォンなどからQRコードを読み込むと、尹の詩人としての人生や作品に関して詳細を知ることができようになっている。
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