1997年にユネスコ世界遺産に登録された昌徳宮の風景(画像提供:wowkorea)
1997年にユネスコ世界遺産に登録された昌徳宮の風景(画像提供:wowkorea)
1505年に燕山君(朝鮮の暴君)は昌徳宮の裏庭(後苑)に「ソチョンデ(瑞蔥台)」と言う宴会用の建物を建てるように命令した。景福宮に敷設されている慶会楼に似たコンセプトだった。「燕山君日記」に瑞蔥台に関してこのように出て来る。

「石を積んで台を作り、龍を美しく彫り付けた石で欄干を作ったので、千人が座れるほどで、高さは10尋(尋:両手をいっぱいに広げた幅)にもなった。名を瑞蔥台といった。監督者が100名、労役者は数万人にのぼり、ホヤー(呼耶:複数の人々が働く時に声を合わせて呼吸を整える掛け声)と言う声が昼夜を問わず絶えず、その声は天地を揺らした」(燕山12年(1506年)1月21日)。

建物だけではなかった。周辺の巨大な池まで造成させた。

「瑞蔥台の前に池を掘ったのだが、深さが10尋になるようにしたので船でも通えるようにし、(中略)更に心根が勤勉でつつましく自分の家の家事のように奉公する人を選んで工事を監督させた」(燕山12年(1506年)2月3日)。

労役には一般の平民だけでなく、軍人まで徴発された。

「瑞蔥台を築く全羅道地方の軍人960人の内の780人が来なかったので、引率して来た長城縣監(縣監:朝鮮時代の官職)のイ・ジュンシク(李仲植)を取り調べさせた」(燕山12年(1506年)8月1日)。

過酷な労役が1年以上続き、建設資金作りの為の税金徴収もまた過酷だった。当時の文集である『ソムンソェロク(謏聞鎖錄)』にはこう出て来る。

「台を築く時、忠清道、全羅道、慶尚道の軍人と平民を強制的に動員して苦役を課し、布を供出させることが多かったので平民らが十分にまかなえず、服の中に入っている綿まで取り出して布を織ったので、その色は黒ずみ汚れ、サイズも短くなった。これによって品質の悪い木綿布地を意味する『瑞蔥台布』と言う言葉まで生れ出た」。

瑞蔥台の工事は「中宗反正」(1506年)で燕山君が廃位されたことによって中断された。中宗時代に燕山君の罪状を記録した文にはこう出て来る。

「高さが百尺あまりにもなる楼台を築き、名を瑞蔥台と言った。その上には千人余りを座らせられるほどであり、その下には池を掘った。(中略)そこに動員された労役人夫の数をざっと数えてみると、50万人にもなった。修理都監、築城都監、都提調(諮問役)、副提調、郎官、監役官などが2百人あまりにもなったので、彼らが平民たちをひどく過酷に侵奪した」。

工事が中断された瑞蔥台の建物は1507年に撤去されもしたが、華麗に造成された周辺の景色と敷地(跡地)はその後、王室の宴会や武術試験などの会場として使用された。

このような瑞蔥台を大切に保存している昌徳宮は、1404年(太宗4年)に初めて工事が始まり、1年で宮殿としての基本機能を備えた建物として完成し、その後長期間にわたり増築がなされた。錦川橋、真善門、仁政門、仁政殿、宣政殿、煕政堂、大造殿、楽善齋、芙蓉池などの様々な付属建造物、ないし施設が追加された。正門に相当する「敦化門」は1412年に完成した。

1592年の壬辰倭乱(文禄の役)の時に昌徳宮は全焼した。王室の卑怯な姿に対して憤怒した平民らが放火したという説と、豊臣秀吉の日本軍が放火したという説が存在する。1605年(宣祖38年)から再建を始めた昌徳宮は1610年(光海君2年)に完工した。1623年には仁祖反正で昌徳宮はまた焼失して、その後、再建を始めて1647年(仁祖25年)に完工した。1833年(純祖33年)の大火災で再びまた焼失した昌徳宮は1868年(高宗5年)に再建された。

1404年の最初の工事開始から1868年の再建まで、460年間余りにわたり焼失と再建を三度も繰り返した。集中的に工事が進行した期間のみ計算してみても、全て合算すれば、ゆうに数十年にはなるだろう。数百年にわたる昌徳宮の建設及び再建によって、平民らが被らねばならなかった苦役と苦痛は十分に斟酌される。

加えて工事期間中、少なくない平民が死んだり負傷したりしただろう。このように昌徳宮は朝鮮時代の平民らの苦痛に満ちた労役の上に建設された。万が一、平民らの労役が無かったとしたら、昌徳宮は存在しえなかった。従って今日の韓国人は昌徳宮を眺めてみる時、その雄壮さや華麗さのみならず、当時動員された平民らの血と汗がにじむ労役もまた忘れてはならない。

昌徳宮は1997年にユネスコ世界遺産に登録された。ユネスコ世界遺産のホームページには登録された歴代の世界遺産リストと共に、それぞれについての説明が出て来る。昌徳宮は「Changdeokgung Palace Complex」と言う名前で登録されている。

ところが、要約(Brief Synthesis)、登録基準(Criterion)、完全性(Integrity)、信頼性(Authenticity)、保存及び管理システム(Protection and Management Requirements)などからなる当該世界遺産(昌徳宮)の説明内容の何処を見ても、昌徳宮建設に動員された当時の朝鮮の平民らの境遇(苦痛と困難)に言及した部分は出て来ない。一行も無い。

最近のメディアと多くの韓国人が、日本に対して明治産業革命の世界遺産(軍艦島など)に関して「朝鮮人が強制労役させられた点をきちんと説明しろ」と言い、非難を激しく浴びせる。

1944年以前に軍艦島などの炭鉱で勤務した朝鮮人は全て自発的に渡って行ったケースに該当する。徴用の適用を受けたケースは最後の1年余りの期間だけだ。徴用は当時の朝鮮人だけでなく、日本人にも等しく適用された。古今東西、徴用は合法だ。あたかも当時の朝鮮人のみ強制労役させられたかの如く主張するのはまた別のわい曲であると同時にねつ造だ。

日本に対してそのような要求をしようとすれば、その前に昌徳宮についての説明から全く同じ風にしておいてこそ初めて、最小限、話になる。自分がしないのに、他人にだけ強要すれば「ネロナムブル(自分がやるとロマンス、他人がやると不倫:二重基準)」だ。

全て置いておいて、話は全く変わるが、明治産業革命遺産はその性格が過去の誤りを教訓と見なそうという趣旨のもの(例えば「アウシュビッツ収容所」)でなく、誇らしいものを世の中に広く知らせるための趣旨の遺産だ。ところがそこに「強制労役」のような話をしておけと要求するのが果たして常識的か?

立場を換え、世界遺産へ登録された昌徳宮に対して他国の人々が「強制労役を課せられた当時の平民の血と汗を確実に説明しておけ!」と執拗(しつよう)にかみついたら我々韓国人の気分は如何なるだろうか?現在の韓国が見せる姿は、他家の宴会を妨害しようと突っかかるネチネチと未練がましい姿の外、何物でもない。

※この記事は韓国の保守論客ファンドビルダーさんの寄稿文を日本語に翻訳したものです。韓国メディアには既に韓国語版が公開されています。翻訳の正確さに対する責任は当社にあります。


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