王宮では王位をめぐる様々な争いがあった(写真提供:ロコレ)
王宮では王位をめぐる様々な争いがあった(写真提供:ロコレ)
朝鮮王朝時代に王の後継者を決める際に様々な争いがあった。7代王・世祖(セジョ)として即位した首陽大君(スヤンデグン)は、本来は二男で王になる資格がなかったが、王になることに対して強い野心を秘めていた。そこで、彼はとんでもないことを画策するのだが…。

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■王座を狙う野心家

 朝鮮王朝7代王・世祖となった首陽大君は、ハングルを創製したことで有名な4代王・世宗(セジョン)の二男として生まれた人物だ。

 朝鮮王朝時代は原則として長男が王の後継ぎになることが決まっていたため、世宗の後を継いだのは5代王・文宗(ムンジョン)だった。

 首陽大君は野心家だが、自分が二男である以上、王になれないことは理解していた。しかし、兄の文宗は病床にふせることが多かったこともあり、即位してからわずか2年3か月で世を去ってしまう。

 その後を継いで6代王・端宗(タンジョン)となったのは11歳だった文宗の長男である。文宗は弟の首陽大君が政治的な野心を持っていることを心配して亡くなる前に、異民族の侵攻から国土を防衛した英雄の金宗瑞(キム・ジョンソ)と、領議政(ヨンイジョン/総理大臣)である皇甫仁(ファンボ・イン)に端宗の補佐を頼んだ。

 その2人に敵意を抱いていた首陽大君は、「幼き王の補佐と称して権力を思うがままにするとは許さん。ここはやはり自分が王になるべきだ」と思っていた。

 そんな彼の参謀になったのが、金宗瑞や皇甫仁が端宗の補佐をしていることに不満を抱いている韓明澮(ハン・ミョンフェ)と申叔舟(シン・スクチュ)だった。その他にも屈強な武人たちが首陽大君のもとに集まった。


■意を決した首陽大君

 金宗瑞や皇甫仁は、世宗の三男で首陽大君の弟である安平大君(アンピョンデグン)を後ろ盾につけた。

 これによって、首陽大君派と安平大君派の対立は避けられないものとなった。

 首陽大君は、自分のもとに集まった同志たちと論議を重ねるも、中には逃げ腰になる者や慎重に行動しようとする者がいて、なかなか話が進まなかった。一度は決意が揺らいだが、最終的に決心してわずかな従者を連れて金宗瑞の屋敷に向かった。

 彼は屋敷に着くと、門の前では、金宗瑞の息子である金承珪(キム・スンギュ)が数人の知り合いと談笑していた。首陽大君は、彼に金宗瑞を呼んでくるように頼んだ。しばらくして姿を見せた金宗瑞は、首陽大君を中に招き入れようとした。しかし、警戒していた首陽大君は暗くなっていることを理由にその誘いを断った。

 いつまでたっても首陽大君が屋敷に入ろうとしないため、金宗瑞は自ら彼の近くに寄っていった。

 門の前から人払いをした首陽大君は、「これを読んでほしい」と書状を取り出した。それを受け取った金宗瑞は、もう日が落ちていたので、月明りに照らして読もうとした。

 その瞬間を見逃さなかった首陽大君は、従者に合図を送った。すると、従者の1人が隠し持っていた鉄槌で金宗瑞を殴り倒したのである。

 一瞬の隙をつかれて地面に倒れ込んだ金宗瑞。それを知った息子の金承珪が倒れた父親を守ろうと体の上に覆いかぶさったが、そんなことは関係ないと言わんばかりにもう1人の従者が刀を取り出して2人を切りつけた。


■首陽大君が起こした政変

 首陽大君はその後、端宗のもとへ向かい、「皇甫仁と金宗瑞が国の乗っ取りを図りました」と訴えた。

 首陽大君の次の狙いは、端宗のもう1人の補佐役である皇甫仁である。彼を倒すために首陽大君は端宗に高官を招集させる王命を出すように依頼した。

 本来、端宗は王なので首陽大君の言うことを聞く必要はないのだが、強い力を持った叔父に対してそれができず、ただ言うことを聞くしかなかった。

 そして、端宗の王命によって集まってきた高官たちを、韓明澮は狭い門から1人ずつ入ってくるように仕向け、首陽大君に批判的な高官を見つけるとその場で次々と切り殺していった。

 首陽大君が起こしたこの政変は「癸酉靖難(ケユジョンナン)」と呼ばれている。

 1455年、首陽大君は甥である端宗から王の座を強奪して7代王・世祖となった。しかし、無理やり王の座を奪った世祖を批判的に捉える者がいなくなったわけではない。

 その代表格が成三問(ソン・サムムン)を中心とする「死六臣(サユクシン)」である。彼らは端宗を復位させようと世祖暗殺計画を実行に移そうとしたが、失敗して捕えられてしまう。

 世祖は、成三問たちに「余を王と認めれば助けてやろう」と言ったが、誰も世祖を王とは認めず、罵倒し続けた。

 それにより彼らは全員処刑されてしまった。


■母親のたたり

 端宗を王に復位させることを狙っていたのは「死六臣」だけでなかった。世祖の弟である錦城大君(クムソンデグン)も端宗を復位させようと計画を立てたが、それが露顕して死罪に処されている。

 このような騒動が続いたことで、世祖は「このまま端宗を生かしておけば、また復位を狙う者が現れる」と思い、1457年に端宗を流罪にしたうえで殺害した。

 その後、世祖は制度の改革に力を尽くしたり、朝鮮王朝の基本法典である「経国大典」の編纂を始めたりした。しかし、彼は晩年に原因不明の皮膚病に苦しんだ。

 一部では「その皮膚病は顕徳(ヒョンドク)王后に夢の中でツバを吐かれたことが原因ではないか」と噂された。顕徳王后は、端宗を出産してから数日後に亡くなった母親である。

 世祖は、妻との間に2人の子供をもうけるが、長男は19歳という若さで世を去り、後を継いで8代王・睿宗(イェジョン)となった二男も、長男と同じ19歳で亡くなってしまった。

 そのことに庶民は「顕徳(ヒョンドク)王后のたたりだ」と言った。

 いくら王になりたいからといっても、人の命を奪うようなことは絶対にやってはいけないことだ。

 世祖も10代王・燕山君(ヨンサングン)ほどではないにしろ、「悪王」の1人であることは間違いない。


文=康 大地
(ロコレ提供)

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