故田内千鶴子=(聯合ニュース)
故田内千鶴子=(聯合ニュース)
【ソウル聯合ニュース】「涙と血と汗で種をまいた人がいるとすれば、それはお母さん、あなたです。言葉も風習も違うこの国で、飢えに泣く子どもたちを集め、あなたの手でご飯を食べさせてくれました」――。
 1968年11月2日、全羅南道木浦市で営まれた故田内千鶴子(韓国名:尹鶴子<ユン・ハクジャ>)さんの告別式で、成人した孤児たちはこんな哀悼の辞を捧げ、涙を流した。

 田内さんは1912年に高知県高知市で生まれ、朝鮮総督府で働いていた父親に連れられ幼くして木浦に渡った。日ごろから福祉活動に関心が高く、やがて孤児施設「木浦共生園」で子どもたちの面倒を見るようになった。
 1945年に日本による植民地支配が終わり、反日感情も高まったが、孤児たちに対する田内さんの愛情は変わらなかった。共生園の園長の韓国人男性と結婚して名前を尹鶴子と改め、実子も共生園の孤児たちと一緒に育てた。
 日本人であるがゆえに身の安全が脅かされることも多かったが、そのたびに共生園の孤児たちは棒や石を手に田内さんを守った。田内さんはそれを見て「子どもたちが守ってくれた命、生涯子どもたちのために捧げよう」と決心したという。 
 1950年に朝鮮戦争が起こり、共生園は再び存続の危機を迎えた。食糧の配給を受けに行った夫が行方不明になり、田内さんは一人で400人の孤児の面倒を見なければならなくなった。死が頭をよぎるほどつらかったが、そのたびに子どもたちのことを考えて持ちこたえた。結婚するときに日本から持ってきたオルガンや着物など、売れるものは全て売って食糧を手に入れ、必死に運営資金を集めて共生園を守った。
 田内さんはこうした功績を認められ、1963年に日本人としては初めて韓国文化勲章を授与された。1968年10月31日に共生園で息を引き取るまで韓国孤児の母として尽くし、韓国と日本をつなぐ懸け橋の役割を果たしたと評価されている。
 田内さんの生誕101周年を記念し、その波乱万丈の人生を振り返るイベントが30日午後、ソウルのプレスセンターで開催される。羅鍾一(ラ・ジョンイル)元駐日大使、若宮啓文・元朝日新聞主筆、孔魯明(コン・ロミョン)・柳明桓(ユ・ミョンファン)元外交通商部長官らが出席する予定だ。羅元大使は「尹鶴子さんの生誕101周年に考える韓日関係」をテーマに発表を行う。

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