1968年に発生した北朝鮮ゲリラによる青瓦台(大統領府)襲撃未遂事件と、その直後に発生した米情報収集艦プエブロ号拿捕(だほ)事件は、北朝鮮の金日成(キム・イルソン)主席の新たな軍事的冒険主義に基づくものだったとの分析が明らかになった。また金主席は統一に向け、大規模武力侵攻よりも、韓国内ゲリラ拠点の確保による武装攻撃や、大衆蜂起などの長期的な体制転覆戦略を追求していたとされる。
 これは米中央情報局(CIA)がさきごろ秘密記録物指定を解除した、「金日成の新たな軍事冒険主義」と題された極秘報告書の内容。金主席は当時、米国との直接の大規模軍事衝突を避けながら、ベトナム戦争中の米国が他地域で戦争を戦うことは困難だと判断し、韓国の非武装地帯(DMZ)での軍事挑発と青瓦台襲撃事件を試みたとの分析だ。

 報告書は、金主席が金新朝(キム・シンジョ)少尉ら31人の武装ゲリラを韓国に送り込み青瓦台を襲撃させたのは、武力挑発に反発している北朝鮮内部の一角をなだめ、韓国内の全地域で武装蜂起が発生しているとアピールしようという強い狙いがあったとしている。平壌のメディアも当時、この事件は韓国内の武装ゲリラが起こしたものと報じていた。北朝鮮はDMZで韓国軍と米軍を相手に挑発行為を続けながら、韓国政府高官暗殺、ゲリラ拠点確保、韓国共産党の組織など、さまざまな任務を与えたゲリラを韓国に浸透させたという。

 金主席は、1960年の4月革命(4・19革命)、翌年5月の軍事クーデターと、2度にわたり韓国の体制を転覆させる絶好の機会を逃している。しかし、当時ベトナムのホー・チ・ミン主席が南ベトナムで政治・軍事機構を作ったように、韓国で危機が発生した場合にこれを利用する共産党員を訓練することを構想していたと、報告書は指摘している。

 また、青瓦台襲撃事件直後に北朝鮮がプエブロ号を拿捕した事件については、金主席の客観的・主観的な要素に基づく情勢判断の結果だと述べている。客観的な判断要素とは、米国は拿捕の報復として核攻撃を行うことはできない、在来式の攻撃ならいくらでも対抗できるというもの。米国はソ連(当時)、中国との条約のため軍事的行動を抑制されているうえ、アジアでの第2の戦争介入を避けていると確信していたと思われる。主観的には、帝国主義の米国に挑むことで友好国のソ連と中国を圧倒したい、米国に対抗する大胆さをこれら2カ国の慎重な姿と克明に対比させたいといった狙いがあったと見ている。こうした行動を通じ、金主席は自身を「反米闘争において最重要地位を手に入れた戦略家」と考えていたと分析した。

 また金主席は1968年10月に、小国でも米国をすべての前線で撃退できるという、キューバのカストロ議長やホー・チ・ミン主席の主張に通じる理論を提示したという。


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