以下は一問一答。
―北朝鮮ではどのような暮らしをしてきたか。
「大学にも通い、現在は重要な職責で働いている。家内は党学校で学んでいる。家内の両親は平壌市人民委員会の副委員長で、事業をしている」
―今の仕事を具体的に説明すると。
「統一部門関連事業をしている。ここでは統一事業への関心が高く、特殊部門と呼んでいる」
―どのようにして北朝鮮に渡ったのか。
「1978年8月5日、夏休みを利用して友人らと仙遊島海水浴場に遊びに行った。先輩2人が女性に貸した録音機を返してもらってくるよう言い、暴力をはたらいた。言う通りにしなければさらに殴られるかと思い、一時身を隠そうと海辺の小さい船に隠れた。少し漕ぎ出して安心し横になっているうちに眠ってしまった。目を開けると島も海水浴場の灯りも見えなかった。死ぬのかと思ったが、遠くないところに1隻の船が通ったので助けを求めた。船にいた人々に状況を説明したところ、島に戻るのは難しいので一緒に行こうといわれた。後になって北朝鮮の船だと分かり、南浦港に着いた。北朝鮮だと聞いて、怖くて心配になった」
―その後どうしたのか。
「最初の数日は眠れず食欲もなかった。徐々に北朝鮮の人たちの親切さに触れ、心も落ち着いた。あちこち見て回るうちに北朝鮮に対する認識が変わり始めた。韓国に戻っても生活は苦しく、悩んだ末にここで少し勉強をしてから戻ればいいと思い、歳月が流れ28年が経った」
―ヘギョンさんと横田めぐみさんについては。
「86年初めにめぐみから日本語を学ぶうちに親しくなり、86年8月に結婚した。娘が生まれ、3年間幸せに暮らしたが、めぐみに病気の症状がみられるようになった。出産後の健康管理が行き届かなかったこともあり病状が悪化し、うつ病を患い精神的に問題が生じるようになった。不幸にも回復がならず、94年に死亡した」
―めぐみさんの遺骨を日本に渡したが。
「2004年11月に平壌で日本政府代表団に会ったとき、めぐみの問題について具体的に説明した。たっての願いで遺骨を渡した。当時日本側の団長は遺骨を受け取り、私から直接受け取ったとめぐみの両親に責任を持って伝え、公表はしないと自筆の確認書を残した。しかし遺骨はあちこちに分けられ鑑定まで行われ、偽者だという稚拙で幼稚な主張が始まった。夫である私とめぐみに対する冒涜(ぼうとく)であり、耐え難い人権じゅうりんだ」
―めぐみさんの死亡日と死亡理由は
「94年4月13日だ。独身時代から患っており、幼い頃事故に遭い脳にけがをした記憶があると話していた。よく頭が痛いと言っており、なかなか治らなかった。妻として母として、家庭生活を営むことができない状態になり、専門病院に入院したが、治療の甲斐がなかった」
―めぐみさんは自殺したというが。
「うつ病による統合失調症だったが、好転したときに自殺を図ることが多いと聞く。何度かそういうことがあった。具体的な内容や方法は言わないが、結局、病院で自殺した」
―めぐみさんの両親が、ヘギョンさんを日本に帰して欲しいと言っているが。
「ヘギョンはめぐみの娘であり、私の娘だ。要求自体が私としては納得しがたい。日本当局の姿勢を見ても行かせたいと思えないし、本人も行かないと言っている」
―名前については。
「韓国にも特殊事業を行う機関があるというが、携わる人は対外的には違う名前を名乗っているのでは。名前の公開は私生活の部分であり、本名が知られるといいことよりも悪いことのほうが多いため、異なる名前を名乗った。
―静かに暮らしたいと言うが、日本側の関心についてどう思うか。
「良い面からの関心なら嬉しい。しかし、党と国の配慮でここまで成長した者として、自分の問題で北朝鮮にとっての害となる関心ならば必要ない」
―出身大学はどこなのか。
「金星政治大学だ」
―78年の失踪について、仙遊島に上陸して連れ去ったという証言もあるが。
「私の話したことが事実だ。他の証言は関係ない」
―故郷を訪問してみたいか
「故郷への思い出や郷愁、行ってみたいという思いはある。しかし、今南北間が置かれた状況から考えると、まだその時期ではないとうだ。今後機会が作られれば行くつもりだ」
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