<b>#第41回大鐘賞授賞式にて</b>
「初めて恥ずかしくない作品を作ってくれたユ・ハ監督に、感謝いたします」

クォン・サンウ の最新ニュースまとめ

<b>#映画『恋する神父』試写会にて</b>
「私どもの国より、文化の質や量が優れた日本で、韓国スターと文化に関心を持って下さって、ありがとうございます」

<b>#MBC<セクションTV芸能通信>にて</b>
「50万ウォンのために、わざわざ会ってやることないじゃないですか?」

<b>#2004.08.10</b>
「正直過ぎて建前を言えず、損しているのでは」という質問に…。
「本音を口にして、後頭部を殴られることが多いです。特に最近は殴られてばかりいます。正直、そう言われるといい気はしません。でも、そう言われても自分が間違ってもいないのに、“申し訳ありません”“すみません”なんて言えません。これは、IQ50の人間がいうことだと思う。どうやったらそんなことを納得できるんだか…」

<b>#映画雑誌<プレミア>8月号</b>
「外国の映画は、ダウンロードしたら観られます」

<b>#2004.08.22 批判が書き込まれたファンカフェにて</b>
「最近、サンウを叩く記事のせいで、皆さんもいい気がしていないようですね。納得できないことが多いですが、ある人をバカに仕立て上げるのは、本当に簡単だと思います。人よりちょっと正直なことは、罪だというなら罪でしょう。いつもの質問にいつもの答えじゃ、僕もそうなってしまいます。ムカついていることを言い出せばキリがないですよね」

ここまでくると、彼の人気による一種の試練だと、心の隅にしまってはおくわけにはいかない。
公人であるということ、芸能人はプライベートも意識し、常に言動に気をつけなければならないという一般的な忠告も、彼には耳障りなだけと見える。
彼がすでに、トップスターの座に上りつめ、演技力も認められているということを思えば、もう少し慎重であってほしい。“モムチャン”(モム=身体/チャン=最高)の上に“マルチャン”(マル=言葉/チャン=最高)まで望むのは申し訳ないが。
彼自身も分かっているとは思うが、こういう時は“弁解”ではなく“謝罪”をするものだ。

では、誰に謝罪をするべきなのか?

2001 『火山高』キム・テギュン監督
2002 『ひとまず走れ!』チョ・イソク監督
2003 『同い年の家庭教師』キム・ギョンヒョン監督

できれば彼の映画を観るファン全員に謝れと言いたいが、まずはこの3人に謝るべきであり、さらに多数のスタッフに謝るべきだろう。
映画はクォン・サンウという人間が口にしたような、監督1人の力でできるような芸術ではない。その下には、クォン・サンウの出演料の1/10にも満たない報酬で黙々と照明板をかざし、「レディ・ゴー!」と叫びながら走り回るスタッフたちがいる。

映画は監督だけのものではなく、主演俳優のものでもないということだ。
「恥ずかしくない映画」・・・それはどんな映画だろうか?
ユ・ハ監督の『マルチュク青春通り』は、韓国の暗い時代を舞台に、当時の高校生が感じていた悲哀と悲しみを描いた立派な作品であり、これから自分のフィルモグラフィーに並べたい作品だと?
では『火山高』『ひとまず走れ!』『同い年の家庭教師』はそうではなく、金のためにシナリオも読まず、恥ずかしくても出演した映画なのか。それとも、出演してみたら監督やスタッフの力量不足で、クォン・サンウの名を辱めた映画だとでも言うのだろうか?

言い間違いで上手く伝わらないこともあれば、一言で相手を怒らせることもあるが、“弁解”ではなく“謝罪”で誠意を尽くすべきである。

なぜクォン・サンウという俳優が、主演男優賞に記録されず、恥ずかしくない映画で人気を集め、人気賞を受賞したのか、大鐘賞の主演男優賞の基準とは関係なく、彼自身のためではないのだろうか。
人気は高いが、演技に深みはなく、発言にも考えが足りない。
彼の、慎重な言動が期待される。

Copyrightsⓒgonews&etimes Syndicate&wowkorea.jp
 0