朝鮮半島の国家のことを英語では「KOREA」と言う。この表記は、高麗王朝が由来となっている。高麗は「コリョ」と発音するが、この音が元になって「KOREA」という言葉が生まれたのである。(写真提供:ロコレ)
朝鮮半島の国家のことを英語では「KOREA」と言う。この表記は、高麗王朝が由来となっている。高麗は「コリョ」と発音するが、この音が元になって「KOREA」という言葉が生まれたのである。(写真提供:ロコレ)
朝鮮半島の国家のことを英語では「KOREA」と言う。この表記は、高麗王朝が由来となっている。高麗はハングルで「コリョ」と発音するが、この音が元になって「KOREA」という言葉が生まれたのである。つまり、ヨーロッパは高麗を通して朝鮮半島の国家を最初に認識したのであり、今も世界は高麗が元になった国名表記を朝鮮半島に適用している。この一事をもってしても、高麗という国の偉大さがわかる。

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■首都は開京

 高麗が建国されたのは918年である。当時は、初めて朝鮮半島を統一した新羅(シルラ)の統治時代であったが、後百済(フペクチェ)、後高句麗(フゴグリョ)といった国が各地に勃興し、新羅の勢力も急速に衰えていた。

 その中で、高麗を建国した王建(ワン・ゴン)は優れた戦略で勢力を伸ばし、ついに936年に朝鮮半島を統一した。このあたりの経緯は、チェ・スジョンが主演したドラマ『太祖王建』で詳しく描かれている。

 歴史から教訓を学ぶとすれば、新羅の国力が衰えたのは朝鮮半島の南東部の慶州(キョンジュ)に都をかまえたことも理由の1つだった。あまりに端にあって、領土全体に目が行き届かなかったのである。

 その点、高麗は朝鮮半島の中央に位置する開京(ケギョン/現在の開城〔ケソン〕)に都を構え、全土に目を光らせることができた。


■典型的な仏教国家

 王建が国号を高麗としたのは、強く高句麗を意識していたからだ。彼は、かつて朝鮮半島北部から中国大陸にかけて強大な国家を築いた高句麗の後継者を自認していたほどであった。

 そして、王権を磐石なものにするために、王建は子孫が絶対に守るべき10の掟をつくった。それは、「仏教を重んじること」「風水地理を尊重すること」「長男が王位を継承すること」など具体的なことばかりであった。

 その掟が守られたことで、高麗は典型的な仏教国家になり、僧侶の地位が高くなっていったのである。

 さらに、優秀な人材を官僚に取り立てるために、高麗は中国の王朝にならって科挙の制度を取り入れた。そこまでは良かったのだが、優遇された文官は徐々に貴族化していき、高麗は極端な門閥が幅をきかせるようになってしまった。

 しかも、軍事力を持った武人の地位は文官より低く、武人の不満が次第に大きくなっていった。


■世界最強の蒙古

 1170年、武人たちはクーデターを起こし、文官を追放して、自分たちの意のままになる明宗(ミョンジョン)を即位させた。

 明宗は第19代の高麗王として1197年まで在位したが、実権は武人側にあり、ここに朝鮮半島では珍しい武人政権が続いたのである。このあたりの経緯は、ドラマ『武人時代』に描かれている。

 とはいえ、武人が司る政治はまとまりを欠いた。

 有力な武人が自分の勢力拡大をはかり、私兵を強化して争いを起こし、国内はなかなか平穏を取り戻せなかった。

 そんな高麗にとって常に頭痛の種となっていたのは、北方民族や中国の巨大王朝の存在であった。高麗の前期には、北方に位置する契丹や女真族との争いに神経をすり減らしていたし、中国大陸で蒙古が勢いを得ると、その干渉をしきりに受けるようになった。

 ついに、1231年に蒙古の大軍が攻めてきた。

 高麗も必死に戦ったが、なにしろ相手は当時世界最強の蒙古である。高麗としてはへりくだって講和を結ぶのが精一杯だった。しかし、領土拡張を国是とする蒙古は講和を破って何度も攻めてきた。

 やむなく、1232年、高麗は都を開京から江華島(カンファド)に移した。蒙古は海戦が得意ではなかったので、島に移れば相手も攻めきれないだろうという読みがあったからだ。

 急場しのぎの遷都は意外と効果があり、高麗はなんとか蒙古の攻撃をしのいだ。なにしろ、都は40年間近くも江華島から移らなかったのである。


文=康 熙奉(カン ヒボン)
(ロコレ提供)

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