布施辰治(写真提供:ロコレ)
布施辰治(写真提供:ロコレ)
日本国内で朝鮮半島出身者の弁護に精を出す中で、布施辰治は植民地下の朝鮮半島に何度も渡っている。1923年には独立運動家を弁護するために朝鮮半島に行っているし、以後も1926年、1927年と現地に入り、法廷弁護、事件調査、講演活動を行なっている。


■容赦ない弾圧

 1931年の満州事変以後、軍国主義的な政治色が強まると、布施辰治は2回も投獄され、弁護士資格も剥奪された。官憲により容赦ない弾圧を受けた布施辰治。その無念さはいかばかりだっただろうか。

 1944年には、三男が治安維持法違反で逮捕され、京都刑務所で獄死するという悲劇も起きた。

 このとき、布施辰治は弁護士資格を剥奪されていて、息子の弁護すらできなかった。彼の嗚咽が聞こえてくるかのようだ。

 布施辰治が再び弁護士の資格を得たのは、1945年の日本の敗戦以後だった。65歳になっていたが、再び彼は旺盛な弁護活動を続けた。同時に、日本に残る朝鮮半島出身者のための弁護活動も熱心に行なった。

 1953年9月13日に72歳で永眠。9月24日に東京の日比谷公会堂で行なわれた告別式には、彼の人徳を慕って多くの朝鮮半島出身者が弔問に訪れた。

その哀悼の念は、決して消えることがなかった。


■韓国建国勲章を受章

 亡くなってから47年後の2000年2月29日、韓国の放送局MBCは名物報道番組の中で「日本のシンドラー、布施辰治」という特集を放送した。

 これがきっかけとなり、韓国で布施辰治を再評価する気運が高まり、彼は2004年に韓国建国勲章を受章した。

 それから5年後の2009年12月、私は布施辰治の生家跡を訪ねた。

 そこには一般的な住宅が建っていた。

 玄関のところで中年の女性の姿が見えたので、声をかけて布施辰治について聞いてみると、奥に引っ込んでダンナさんを呼んできてくれた。

 現れた男性は、布施辰治の甥の息子だという。「祖父が辰治と兄弟だったんです」とのことだ。

「布施辰治さんは、どんな人だったと聞いていますか」

 私がそう聞くと、男性は優しい眼差しで答えた。

「芯が強い人だったと聞きました。軍国主義の時代に牢獄に入ってまで弱者を助けたわけですから……」

「この場所に布施辰治さんの生家が建っていたのですね」

「ええ。昭和48年に今の家に建て直しましたけれど、それ以前は残っていました」


■石碑「布施辰治出生之地」

「写真がありますから、ちょっと待っていてください」

そう言って、男性は額縁に納められた写真を持ってきてくれた。そこには、茅葺き屋根の家が写っていた。

「かつては出生の地を示す碑が家の前にあったんですが、事情があって近所の集会所の前に移っています」

そう聞いて、教えられた方向に200メートルほど行くと、集会場の前に「布施辰治出生之地」と書かれた石碑が建っていた。

 実際の生家と、それを示す石碑の場所が離れてしまっているが、広義にその地区を「出生之地」と考えれば、それで十分に納得がいく。

 今、人権の尊さが叫ばれている時代でも、果たしてどれだけの人が他人の人権に配慮できているだろうか。

 そのことは私も大いに反省するところだが、思想の自由すらない時代に、身を盾にして人権擁護や社会的弱者の救済に立ち向かえる人には、ただひたすら頭が下がる。不自由で困難な時代でも、この人たちの精神こそが最も自由で闊達だった。

「生きべくんば民衆とともに、死すべくんば民衆のために」

布施辰治の人生をたどっていくと、この言葉が素直に心にしみてくる。


文=康 熙奉(カン ヒボン)
(ロコレ提供)

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