ドラマ『階伯(ケベク)』ではイ・ソジン(少年時代はイ・ヒョヌ)が階伯を演じた(写真:MBC「階伯」HPより)
ドラマ『階伯(ケベク)』ではイ・ソジン(少年時代はイ・ヒョヌ)が階伯を演じた(写真:MBC「階伯」HPより)
時は660年である。百済(ペクチェ)の義慈(ウィジャ)王は、在位が長くなって堕落した。そんな王のもとで国力が衰えるのも仕方がなく、新羅(シルラ)・唐の連合軍が攻めてきたときに、百済はなすすべがなかった。とはいえ、滅びゆく百済を必死に守ろうとした人物として有名なのが階伯(ケベク)将軍である。

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■身を投げた3千人の宮女

 当時、階伯は都の扶余(プヨ)を守る最高司令官だった。

 彼はこの戦いに勝ち目がないことを悟っていて、出陣する前に家で妻子を自らの手で死に至らしめている。国が滅んだとき、妻子の行く末は奴隷になるか辱めを受けて死ぬかのどちらかになると見越し、尊厳を守れるうちに妻子を天国に送ったのである。

 そして、階伯は精鋭5千人の兵とともに新羅・唐の連合軍に立ち向かった。敵は十倍以上の巨大軍団。百済軍は勇敢に戦ったが、最後は壮絶に全滅した。かくして、都の扶余は新羅・唐の連合軍によって陥落した。

 唐の司令官は勝利に浮かれ、都に火を付けた。扶余は7日間燃え続けてすべて灰になったという。降伏した義慈王は、捕虜として唐に連行されていった。

 ただし、辱めを受けることを恥じる宮中の女性たちは、自ら川に身を投げた。その数は3千人と言われていて、その女性たちが身を投げた岩は「落花石」として現在でも扶余に残り、悲劇の歴史を今に伝えている。

 百済の王家は崩壊したが、再興を信じて反撃に転じる人も多かった。そうしたゲリラ戦で頭角を現したのが、鬼室(キシル)福信(ポクシン)だった。

 この福信は、義慈王のいとこであり、王家の血筋を受け継ぐ者だった。何よりも彼は、戦略性に優れた武将であり、百済で生き残った兵を集めて各地で壮絶な反撃を行ない、次々に城を奪い取って領土を回復していった。

 百済の再興も十分に実現可能だった。そこで、鬼室福信は日本に特使を派遣し、当時日本にいた百済の王子である豊璋(ほうしょう)を百済に戻してくれるように要請した。義慈王と王子たちは捕虜として唐に連れていかれ、百済には王の直系の子孫がいなかったからである。


■百済王が暫定的に復活

 鬼室福信が帰還を要請した豊璋とは、どんな人物なのだろうか。

 豊璋が日本に渡ったのは、631年のことである。以後、豊璋は弟の勇とともに、ずっと日本に住んでいた。義慈王の息子でありながら、なぜ彼らは日本にいなければならなかったのか。表向きは「人質だった」とされている。

 この時期の百済は、高句麗(コグリョ)と新羅を牽制するために日本の朝廷との関係を深めていて、いつでも朝廷の協力を得られるように、人質として豊璋を送っていたというわけだ。

 ただし、単純な人質ではなかったと思われる。当時の朝廷には高句麗や新羅からも多くの人たちが技術を持ってやってきており、日本でも朝鮮半島の三国による駆け引きがあった。その中で豊璋は日本の国情を探るという目的を持っていたのかもしれない。

 豊璋は学問にも優れ、中国の故事にも精通していたので、朝廷でとても重用されていた。その功績を認め、朝廷も豊璋の帰国を許した。

 しかも、豊璋は日本の5千人の兵とともに百済に戻ることになった。それほど、当時の朝廷は百済に対して協力を惜しまなかった。

 百済に戻った豊璋は、福信が本拠地にしていた場所で、662年5月に即位式を行なった。義慈王の後を継いで百済の暫定的な王に就任したのだ。

 福信は、自分の持っていた権力のすべてを豊璋に譲り、自らはその臣下となって新羅・唐の連合軍との戦いに挑んでいった。

 形の上では、義慈王の息子が後継者になったことで、百済は再興されたも同然だった。都は相変わらず新羅・唐の連合軍に占領されていたとはいえ、福信の勢力はその他の地域を次々と取り戻し、都の奪還に狙いをしぼった。

 そのままいけば、百済が新羅・唐の連合軍を追い払うことも可能だったのだが…。勢いに水を差したのが福信と豊璋の内紛だった。


■悲劇的な内紛

 福信は生まれながらの真の武将であり、軍事面でも統率力に長けていた。一方、幼くして日本に渡って30年近くも異国に住んだ豊璋は、頭脳明晰で学問には秀でていたが、軍事のことはわからなかった。

 王として君臨し、軍事面は福信に任せておけば特に問題にならなかったのだが、豊璋は自ら軍を掌握しようとした。

 しかし、豊璋が福信の意に反して行なった軍事的な作戦は失敗が多く、百済復興軍の勢いをそぐ結果になっていた。

 福信と豊璋の対立は決定的となり、いざこざが絶えなくなった。その中で起こったのが、福信が道深法師を殺害するという出来事だった。

 道深法師は、福信の協力者であり名参謀であったのだが、その協力者を福信は殺してしまった。

 一説によると、道深法師が豊璋にそそのかされて福信に背信的な行為をしようとしたことが原因とも言われている。

 いずれにしても、信頼する道深法師まで殺してしまった福信の刃の先は、次に豊璋に向かうのも明らかだった。

 そうした危険を察知した豊璋は一体どうしたか。


■歴史書の記述の違い

 韓国と日本に残る歴史書から見てみよう。

 朝鮮半島最古の歴史書『三国史記』には、次のように記されている(なお、「豊璋」のことは「扶余豊」と表記されている)。

  福信はすでに権力を専横し、扶余豊と互に猜忌するようになり、福信は病いだと称して地を掘ってつくった部屋に寝て、扶余豊が病気見舞いに来れば、とらえて殺そうとした。扶余豊はこれを知って、みずから信頼する部下をひきいて、福信を不意に襲って殺した。


 一方、『日本書紀』には、もっと生々しい記述がある。『日本書紀』の天智紀にある記述を現代語に訳してみよう。

  百済王の豊璋は、福信が謀反を起こすと疑い、福信の掌に穴をあけて縛った。それからは、どうしたものかと思案し、配下の者たちに「福信の罪はこの通りだ。斬るべきかどうか」と問うたところ、執得という家臣が「この反逆児を許してはいけません」と言った。激怒した福信は執得に唾をかけて「くさった犬のような頑固者め!」と罵倒した。豊璋は屈強な者に命じて福信を斬り、その首を酢漬けにした。


 豊璋が福信を殺したという事実は同じでも、その過程の記述では『三国史記』と『日本書紀』で違いがある。『日本書紀』のほうが豊璋に好意的なのは、豊璋が日本の朝廷と関係が深かったからだろう。歴史書といっても、結局は書き手の意思によって、記述はいかようにも変わるのである。

(次回に続く)


文=康 熙奉(カン ヒボン)
(ロコレ提供)


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