このカルビは辛かった(写真提供:ロコレ)
このカルビは辛かった(写真提供:ロコレ)
韓国南西部を代表する港町の木浦(モッポ)。とても好きな町だが、KTX(高速鉄道)で木浦駅に着いたのは夕方だった。まず、駅の裏手の旅館街に足を運んだ。いくつか並んでいる旅館の中から、直感で「今日に関してはここが一番!」と目星をつけたところに決めた。新しい建物が気に入ったのだが、料金の安さにも驚いた。4万ウォンはするかな、という予測に反して、なんと2万5000ウォン(約2500円)。その安さに驚いた。うれしい誤算に小躍りしながら、すぐに夜の木浦に繰り出した。


■鳥カルビの店

 港までタクシーで行けば、極上の刺し身が安く食べられるのだが、1人ではそれもできない。韓国で刺し身を食べるときは、平目であれ鯛であれ、1匹をまるごとさばいてもらうのが基本だからだ。店も1人だけの客を最初から想定していないし、「おひとりさま」には不便がつきまとうのである。

 木浦駅前のにぎやかな通りを歩きながら、すぐに見つけた鳥カルビの店に入った。この鳥カルビは鳥のもも肉を野菜や餅と一緒に辛味噌で炒めた料理。辛いけれど、その分ビールが進んで私には好都合なのだ。

 店を切り盛りしていたのは、50代と20代の女性2人だった。母と娘が一致協力して商売繁盛をめざす、と好意的に見てあげたいところだが、キビキビ動く母に比べて娘のほうは動きがゆっくりで、店の手伝いを嫌々させられているという感じだった。

 その娘は、私の目の前の鉄板で鳥カルビを炒めてくれていたが、いくらやっても料理が焼き上がってこなかった。明らかに火力が弱いのだ。娘は何度も火を強くしようとしたが、ガス台が故障している様子で、最後にはあきらめた。

 「違う鉄板で炒めますから、席を移ってください」
そう促されて、隣の鉄板席に移った。娘も私に申し訳ないと思ったのか、さらに新しい材料を付け足して鳥カルビを炒め始めた。サービスのつもりだったのだろうが、結果的に、これが極端な辛さを招いてしまった。付け足した材料にもたっぷりと辛味噌が入っていたからだ。


■様々な屋台が出ている

 とにかく、辛かった。辛さをしのぐためにビールをどんどん飲まなければならないなんて……。しまいには辛さに耐えきれず、鳥カルビを半分以上残してしまったが、いわれのない罰ゲームを受けた気分だった。

 口の中をヒリヒリさせながら外に出たが、まだ食欲は満たされていない。ちょうど「プデチゲ専門店」の看板が目に入ったので、迷いなくその店に行き、ソーセージ、スパム、キムチなどを煮込んだプデチゲ(部隊鍋)を注文した。鳥カルビとプデチゲは私の大好物だが、まさか一度にハシゴをするとは思わなかった。

 さすがに満腹になり、腹ごなしに木浦の繁華街を散歩した。あでやかな店舗が並ぶ通りの真ん中に、様々な屋台が出ている。

 とはいっても、酒を飲ませる屋台ではなく、すべてが立ち食い用だった。そんな屋台をのぞきながら歩いていると、腹一杯に食べたのにまた食欲を刺激された。気のよさそうなアジュンマ(おばさん)がやっている屋台で足を止めて、まずはトッポッキ(甘辛い味をつけた餅)を食べた。アジュンマは小柄だが、ふくよかな体型で声に艶がある。しかも、言葉の最後にかならず笑いが出る。それにつられて、屋台に並べられた串焼きに目が釘付けになった。

 長い串に平べったい肉が8個刺してあって1500ウォン(約100円)だった。一体、なんの肉なのか?アジュンマは「アンタ、日本から来たんでしょ?なら、口に合わないと思うよ」と決めつけてきた。そう言われるとよけい食べたくなるのが私の性分。1本取って、串に刺してある肉にかぶりついた。


■韓国の屋台で飲むのが好き

 日本の焼き鳥とは違って、ただ焼いてあるだけで味はついていない。怪訝そうな顔をしたら、アジュンマが「そこに4種類のタレがあるから、自分の好みのタレをつけて食べるのよ」と教えてくれた。ちょっと辛めの味噌ダレを付けて食べると、とても旨い。

 いくら食べても何の肉だかわからなかったが、最後になってようやく気づいた。これは、鳥のハツではないか。シコシコとした弾力ある食感はそうに違いない。
「これは日本ではハツと言うんですよ」
「日本の焼きとりもおいしいからね」
「よく知っていますね」
「息子は旅行会社でガイドをしていて日本語も上手なのよ。よく日本に行くから、日本のことを教えてくれるわよ。そうだ、今、息子の携帯電話に掛けるから、出たら話をしてちょうだいよ」

 そう言われたが、一体何を話せばいいのやら……。でも、息子さんの携帯電話は電源が切れていた様子で、応答がなかった。安心したような、ちょっぴり残念なような……。

 それにしても、屋台で働く女性たちはバイタリティがある。私は韓国の屋台で飲むのが好きで、新しい町に行くと、すぐに屋台を探す。そんな屋台を切り盛りしているアジュンマには、自分がなんとしてでも一家の生活を支えるという迫力に満ちている。


■全羅道の人たち

 「この商売で娘をアメリカにまで留学させたよ」
そう誇らしげに語っていた釜山(プサン)の屋台のアジュンマを思い出す。あるいは、ソウルの東大門(トンデムン)でなじみにしていた屋台のアジュンマも懐かしい。彼女は、一生懸命に料理を作っていても、通りで足を止める人がいたら、飛んで行って体中から「いらっしゃいムード」を出して呼びこんでいた。あの熱心さをいつも見習いたいと思っていた。

 そして、この屋台のアジュンマ。立ち食い専門で酒を出すわけでもないが、焼き鳥、おでん、トッポッキを用意して、客を明るくもてなしていた。

 おかしかったのは、隣の屋台。日本風のたこ焼き屋だが、ちょうちんにはなぜか「うどん」の文字。韓国の人は読めないと思っているのか、あるいは屋台の主人が細かいことに気を使わない性格なのか。多分、その両方だろう。その後、コンビニへ寄ってビールとつまみを買ったら、レジにいた20歳前後の女性が話しかけてきた。

 「日本にぜひ行ってみたい」
そう何度も言っていた。もともと、全羅道(チョルラド)には人なつっこい人が多い。穀倉地帯で食が豊かだったので、性格的に穏やかになったのでは……。一方、慶尚道(キョンサンド)は山が多くて、食べるのに苦労してきた。それだけ、切羽詰まった生活を強いられ、気性が激しい人が多い。全羅道と慶尚道にはそんな違いがある。

 ただ、朴正熙(パク・チョンヒ)政権になってから慶尚道にはさまざまな投資が行われ、経済的に発展した。それに比べて全羅道は放っておかれた。韓国の経済成長の中で、地域的に全羅道と慶尚道の格差が大きくなり、全羅道の人たちは生きる望みを持って次々とソウルに移った。

 苦しい状況に置かれてのんびりしてはいられなくなったが、それでもやはり全羅道の人は何千年も脈々と受け継いできた、ゆったりとした落ち着きを持っている。だからこそ、旅行していても気分がいいのである。


文=康 熙奉(カン ヒボン)
出典=「韓国のそこに行きたい」(著者/康熙奉 発行/TOKIMEKIパブリッシング)
(ロコレ提供)

Copyrights(C)wowkorea.jp 0