現在の伏見城(写真提供:ロコレ)
現在の伏見城(写真提供:ロコレ)
1592年4月、豊臣秀吉の命令によって始まった朝鮮出兵は、1598年8月に当の秀吉が死んで終わった。朝鮮半島は荒廃し、数万にのぼる人たちが日本に連れ去られた。朝鮮王朝の恨みは骨髄に達していた。困り果てたのが対馬藩だ。朝鮮王朝との貿易を再開できなければ、島が餓死者であふれるおそれがあった。


■徳川幕府の正統性

 たとえ相手が日本を憎悪していても、対馬藩は懲りずに使者を朝鮮王朝に送った。

 情勢に変化があったのは1600年9月だった。

 関ヶ原の合戦で徳川家康が勝利した。これを機に、政権は豊臣家から徳川家に移った。見方を変えれば、家康は朝鮮王朝になりかわって秀吉に復讐をしてくれたようなものだった。

 しかも、朝鮮出兵で家康は自前の兵を1人たりとも朝鮮半島に送っていない。このことは、朝鮮王朝側にとって悪い材料ではなかった。

 1603年2月、家康は江戸に幕府を開いた。念願の征夷大将軍になったのである。秀吉の臣下となっても諦めなかった天下人の座。それを得られたのは、秀吉との長生き競争に勝ったからだった。

 とはいえ、まだ徳川政権は始まったばかりである。大坂には秀吉の遺児の秀頼がいて、彼をかついで豊臣恩顧の大名たちがいつ反旗をひるがえすかわからなかった。

 その機運を抑えるためにも、家康は自らの政権の正統性を渇望した。日本全土を統治するにふさわしい名目を……。

 目をつけたのが、朝鮮王朝との修好回復だった。


■京都・伏見城での会見

 秀吉によって隣国との関係は最悪になったが、家康の代で朝鮮王朝と仲直りができれば、それは大きな国益につながることだった。政権交代の名目にもなる。しかも、国内の基盤を安定させるためには、戦乱の傷痕が残る隣国と早く良好な関係を築いたほうが得策だった。

 もう1つの大きな効果も見込めた。仮に朝鮮王朝から使節を迎えて外交関係を築けば、徳川政権が外国からお墨付きを得たことになる。これこそが正統性の証だった。

 家康は、積極的に朝鮮王朝との修好に取り組む姿勢を見せた。その意向を受けて、対馬藩は盛んに使者を釜山(プサン)に送った。

 朝鮮王朝でも、家康が相手であれば検討する余地があった。

 政権を担う高官たちの間で、とりあえず日本の実情を視察する使節を派遣することで意見がまとまった。

 その際、最適の人材として選ばれたのが僧侶の惟政(ユジョン)である。彼は松雲大師とも呼ばれたが、先の戦乱において加藤清正と何度も交渉をしており、その経験が買われた。

 惟政は、1604年12月に京都にやってきて、伏見城で家康と会った。

その場で家康は、朝鮮王朝と平和な関係を築きたい、ということを力説した。

惟政も「家康なら信頼に足る」と思った。その好印象は、朝鮮王朝が日本に対する警戒心を解く上で効果的だった。

 惟政が母国に戻ったあとも、対馬藩は関係回復を求める使節を重ねて釜山に送った。朝鮮王朝は、正式な使節を日本に送るかどうかを真剣に検討し始めた。


■対馬藩の策略

 日本との修好に前向きになった朝鮮王朝は、その条件として、対馬藩を通して徳川幕府に2つのことを要求した。

 1つは日本側からまず国書を出して使節を招聘すること。もう1つは、戦乱の中で王室の陵墓を荒らした犯人を送ることである。

 犯人を差し出すことはさしたる問題がないように思えた。実際、誰が陵墓を荒らしたかはわからないのだ。適当な罪人を陵墓の犯人に仕立てあげれば済むこと、と対馬藩は考えた。

 ただし、家康から国書を送ることは難航が予想された。これは面子の問題である。先に国書を出すということは、立場的に格下と思われても仕方がない。

 それを家康が納得するかどうか。どちらにしても、かなり時間がかかることは間違いなかった。

 そのことを案じた対馬藩は、苦しまぎれの策を講じた。それは国書の偽造である。徳川幕府に知らせず勝手に国書を作り、1606年11月に対馬藩の家老が釜山に出向いて朝鮮王朝に渡した。

 同時に、陵墓を荒らした犯人として、麻古沙九(孫作のこと)と麻多化之(又八のこと)の2人を朝鮮王朝に引き渡した。

 この2人はもともと対馬島内の罪人であったのだが、陵墓を荒らした犯人に仕立てあげられた。


■罪人の陳述

 朝鮮王朝は驚いた。想定よりずっと早く日本側が対応したからだ。

 しかし、罪人に関しては、偽者であるとすぐにわかった。取り調べの段階で2人の罪人があらいざらいをぶちまけていたからだ。

「朝鮮王朝実録」の1606年11月17日の項には、罪人の陳述が次のように記録されている。まずは、麻古沙九(37歳)の発言から。

   俺は対馬の人間です。壬辰年(1592年)に藩の家臣の使用人として釜山の船着場にいただけで、都には行ったこともなく、陵も荒らしていません。ただし、罪をおかして対馬の田舎に逃げていたところ、去る10月8日の夜につかまり、ここに引っ張りだされてきたわけです。いったい、何を知っているというのですか。どうやって、知りもしない話をしゃべることができますか。もし誓約することを許してもらえるなら、3日以内に死ねという誓約でも固く守ってみせます。俺が抱えている事情はきわめて曖昧だけど、対馬に一度帰してくれるなら、またここに連れてこられて死んだとしても恨みはありません。

 このように、麻古沙九は陵墓荒らしの犯人であることをきっぱりと否定した。


■国書も偽造?

 次に、麻多化之(27歳)の申し開きである。

   俺はもともと対馬の人間で、藩の砲手になりました。藩主が鷹狩りに行ったときに  従いましたが、命令にそむいた罪をおかして獄につながれました。縛られて船に乗せられ、ここまで連れてこられました。朝鮮の土地はこれが初めてで、陵を荒らした犯人だなんて、まったく知らないことです。それなのに、藩の人が俺に『お前が朝鮮に行って余計なことを言わないで我々に尽くしてくれたなら、お前の母、お前の妻の面倒はすべてよく見てあげよう』と言いました。俺はここに来て、その“尽くす”ということが、このように問い詰められることだと知った次第です。

 ここまで詳しく陳述されれば、朝鮮王朝でも、送られてきた罪人が陵墓荒らしの犯人ではないとわかる。

 しかし、真犯人を特定できないのも事実。差し出された罪人を受け入れることで体面を保つという方法も朝鮮王朝で検討された。

 それよりも大きな問題となったのが国書のほうだ。その書面が従来の形式を踏襲していなかったのだ。朝鮮王朝でも、国書が正式なものでないことがすぐにわかった。

 それなのに、朝鮮王朝が取った対応は意外なものだった。

 果たして、何が意外だったのか。

(次回に続く)

文=康 熙奉(カン ヒボン)
出典=『徳川幕府はなぜ朝鮮王朝と蜜月を築けたのか』(著者/康熙奉 発行/実業之日本社)
(ロコレ提供)

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