盧泰愚氏(資料写真)=(聯合ニュース)
盧泰愚氏(資料写真)=(聯合ニュース)
【ソウル聯合ニュース】26日に死去した韓国の盧泰愚(ノ・テウ)元大統領は、軍事政権と文民政権の橋渡し役を担った大統領だった。

 将官から大統領まで一気に上り詰めたが、政権発足後は早くからレームダック(死に体)に陥り、退任後は有罪判決を受け収監されるなど、波乱万丈な栄辱の人生を送った。

 盧氏は1979年に朴正熙(パク・チョンヒ)大統領が射殺された後、陸軍士官学校の同期だった全斗煥(チョン・ドゥファン)氏を中心とする新軍部と呼ばれる勢力による同年12月12日の粛軍クーデターに大きく貢献し、新軍部のナンバー2に浮上した。全斗煥政権下では、軍を退役した民間人として全氏の「後継者」の道を歩んだ。

 政務第2長官を皮切りに体育部長官、内務部長官を務め、85年に与党・民主正義党の代表最高委員などに任命された。87年6月10日の党大会で同党の大統領候補に選出された。

 盧氏は大統領直接選挙制への憲法改正要求を拒んだ全氏の措置を「歴史的決断」と歓迎したが、党大会を機にデモが広がるなど政局が混乱すると、同6月29日に大統領直接選挙制への改憲や金大中(キム・デジュン)氏(後の大統領)の赦免・復権などを盛り込んだ民主化宣言を発表した。

 この宣言は、軍事政権のナンバー2だった盧氏を民主化に向けた闘いの「助演」に変えた。同12月の大統領選挙で、盧氏は候補を一本化できなかった野党の金泳三(キム・ヨンサム)氏(後の大統領)と金大中氏を抑えて当選した。

 盧政権の5年間(88~93年)は、韓国社会が権威主義からある程度抜け出し、政治、経済、社会など各分野で民主化を求める声が強まった時代だった。ソ連の崩壊で米ソの冷戦が終わり、韓国が「北方外交」を展開して共産圏と積極的に外交関係を樹立した時期でもあった。

 盧氏は漸進的な改革で内外の課題を乗り越えようとしたが、就任から2か月にして与党の民主正義党が総選挙で敗北し、少数与党の難局に立たされた。

 この政局を打開するため、90年に民主正義党と金泳三氏率いる野党の統一民主党、金鍾泌(キム・ジョンピル)氏率いる同じく野党の新民主共和党と合併し、巨大与党の民主自由党を誕生させた。だが、出身地や理念が全く異なる派閥が集まったことから、発足当初から主導権争いが絶えず、逆に盧氏の国政掌握力が急速に弱まった。その結果、政権は任期半ばからレームダックに陥り、決断力が足りないとの批判にもさらされた。

 一方、外交面では比較的成果を残したと評価される。ソ連崩壊、東西ドイツ統一など国際社会の情勢が急変する中で北方外交に努め、ソ連や中国と国交を結んだことは代表的な業績に挙げられる。

 また、88年のソウル五輪の成功、89年の韓民族共同体統一案で南北統一プランとその後の青写真を提示したこと、91年の南北基本合意書採択で南北関係の発展に向けた新たな土台を築いたことも評価を受けている。

 退任後は不運の日々を過ごした。95年に在任中の数千億ウォン(1000億ウォンは約98億円)の不正蓄財が暴露され、大統領経験者として初めて逮捕される不名誉を残した。これが契機となり、盧氏は全斗煥氏と共に首謀した粛軍クーデター、80年の5・18民主化運動(光州事件)に関する裁判で有罪判決を受け、懲役17年と追徴金約2600億ウォンの判決を受けた。97年に特赦され、釈放された。

 大手財閥SKグループの崔泰源(チェ・テウォン)会長が娘婿だ。


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