【ソウル聯合ニュース】かつてスポーツはぜいたくだった。国を失った悲しみが大きく、日々の生活が苦しかった日本の植民地時代にスポーツや運動というものは実際にやることはもちろん、頭の中で想像することさえ難しいものだった。 だが、1936年のドイツ・ベルリン五輪で男子マラソンの孫基禎(ソン・ギジョン)選手が獲得した金メダルに象徴されるように、日本の植民地時代のスポーツは「不屈の闘志」「やればできる」という言葉で表現できる。 植民地支配解放後も50年に朝鮮戦争が勃発し、韓国ではスポーツの発展に向けた基盤づくりが難しい状況が続いた。 76年のカナダ・モントリオール五輪男子レスリングで梁正模(ヤン・ジョンモ)選手が韓国国籍で初の金メダルを獲得するまで、孫選手の金メダルから40年の歳月が流れていた。 それから40年が過ぎた現在、韓国は2018年平昌冬季五輪開催を控え、スポーツ強豪国への道を確実に歩んでいる。◇国を失った悲しみと民族同士が争う悲劇 国際オリンピック委員会(IOC)に韓国を代表して参加している大韓体育会は1920年に創設された朝鮮体育会が母体となっている。 朝鮮体育会は当時、「健民」と「抵抗」を理念に掲げ設立された。 同年11月に後の全国体育大会へとつながる第1回全朝鮮野球大会を開催後、34年に種目別競技大会を統合した全朝鮮総合競技大会を開催した。 日本の植民地時代の韓国スポーツを象徴するのは、やはりマラソンだ。 36年のベルリン五輪に出場した孫選手と南昇龍(ナム・スンリョン)選手は金メダルと銅メダルをそれぞれ獲得する快挙を成し遂げた。 孫選手は2時間29分19秒という記録を打ち立てた。当時、2時間30分の壁を越えるのは難しいとされていた。 孫選手の金メダル獲得の朗報は独立軍の勝戦報以上に朝鮮に大きな意味をもたらした。 金メダルを獲得したことで国を失った悲しみが一層深まった。 胸に日の丸を付け表彰台の一番上に立たなければならなかった孫選手の姿が、当時の朝鮮の現実を象徴するシーンとなった。 日本の植民地時代を代表する言論抵抗運動に挙げられる「日章旗抹消事件」は孫選手の金メダルから始まった。 東亜日報は孫選手の胸の日の丸を黒くぬりつぶした写真を掲載して、金メダル獲得のニュースを報じた。 朝鮮体育会は38年7月に日本によって強制的に解散させられ朝鮮のスポーツは危機を迎えた。 しかし、植民地支配から解放されたことで45年11月に復活。 これをきっかけに38年に共に解散させられた各種競技団体も新たに組織された。 47年に朝鮮オリンピック委員会(KOC)が設立され、IOCに正式に加盟した。 48年1月のスイス・サンモリッツ冬季五輪は韓国が初めて出場した五輪となった。 また、同年7月の英ロンドン夏季五輪には選手50人と関係者17人を派遣した。 韓国がこのとき獲得した五輪初のメダルは、男子重量挙げミドル級の金晟集(キム・ソンジプ)選手と、ボクシングフライ級の韓水安(ハン・スアン)選手の二つの銅メダルだった。 ロンドン五輪終了後、朝鮮体育会と朝鮮オリンピック委員会は大韓体育会、大韓オリンピック委員会にそれぞれ改名した。 50年には朝鮮戦争が始まったが、韓国は52年のフィンランド・ヘルシンキ夏季五輪にも選手を派遣し、重量挙げとボクシングでそれぞれ銅メダルを獲得した。 ◇1976年五輪初の金メダル、82年にはプロ野球開幕 70年代から80年代にかけ、韓国のスポーツは目覚しい発展を遂げた。 70年代の最も大きなスポーツニュースは、76年のモントリオール五輪男子レスリングで梁選手が金メダルを獲得したことだった。36年に金メダルを獲得した孫選手の国籍は日本と記録されていた。 また、56年のオーストラリア・メルボルン五輪ではボクシングバンタム級で宋順天(ソン・スンチョン)選手が銀メダルを獲得している。 80年代には韓国にプロスポーツの時代が訪れた。 82年にプロ野球が、83年にはプロサッカーがスタートした。 両プロリーグの発足は、当時の独裁政権による愚民化政策との指摘もあったが、韓国のスポーツが大きく発展するきっかけとなった。 6球団で始まったプロ野球は現在10球団にまで増え、年間700万人を動員する国民的スポーツに成長した。 ◇88年ソウル五輪開催  韓国が植民地支配から解放された45年当時、韓国で五輪やアジア大会のような国際総合スポーツ大会を開催できると考えていた人はほとんどいないはずだ。 70年の第6回アジア大会は韓国が招致したものの、経済力や治安が問題となり開催権を返上した。 だが、86年のソウルアジア大会、88年のソウル五輪開催は、50年代の朝鮮戦争が記憶に残る外国人にとっては衝撃的なニュースとなった。 81年9月に西ドイツで開かれたIOC総会で、88年の夏季五輪開催地の投票が行われ、ソウルと名古屋が激突した。 当時、名古屋が優勢と伝えられていたが、ふたを開けてみると52―27でソウルの圧勝。五輪招致合戦で日本に勝ったという事実に韓国が沸いた。 また、同時に両大会で良い成績を収めることが韓国スポーツ界の大きな課題となった。 両大会でのメダル獲得を狙う有望選手として集中トレーニングを受けた「88・86世代」はスポーツ大国を目指す韓国の基盤をつくった。 一方で、両大会は朝鮮半島情勢を悪化させる一因にもなった。 韓国で世界的な大会が開かれることを快く思わない北朝鮮の金日成(キム・イルソン)政権が、挑発に出るのではないかという懸念が高まった。 80年の旧ソ連・モスクワ五輪に西側諸国が参加せず、84年の米ロサンゼルス五輪ではこれに反発した東側諸国が大会をボイコットした。 しかし、88年のソウル五輪には北朝鮮やキューバなどを除くIOC加盟国が参加した。 分断国家である韓国で東西冷戦の雰囲気が和らぐきっかけになった五輪が開催されたという事実が、88年のソウル五輪の意味をさらに高めた。 86年のソウルアジア大会では金メダルを93個獲得し総合2位につけた。 また、88年のソウル五輪では金メダル12個で総合4位につけ、期待以上の結果を出した。 両大会の成功は韓国が先進国の仲間入りを果たす可能性とプライドを新たにするきっかけになった。 ◇02年の韓日W杯開催、冬季五輪も招致 韓国のスポーツは、ソウル五輪の成功に続き02年には日本とサッカー・ワールドカップ(W杯)を共催した。 サッカー韓国代表は86年のメキシコ大会から14年のブラジル大会まで8大会連続でW杯に出場し、アジアトップレベルの強豪国に成長した。 02年の韓日大会ではオランダ出身のヒディンク監督が率いた韓国代表が、ポルトガルやイタリア、スペインなど欧州の強豪国を次々と破り、アジアの国で初のベスト4入りを果たした。 また、10年と14年の冬季五輪の招致に失敗した江原道・平昌が18年の大会開催権を獲得。韓国はこれで夏季・冬季五輪、サッカーW杯、世界陸上選手権大会の世界4大スポーツイベントと言われる大会を全て招致した6番目の国になった。 韓国のほかには、フランス、ドイツ、イタリア、日本、ロシアがこれらの大会を招致した。 2000年代に入ると、韓国が得意とする競技に変化が現れた。 90年代までは柔道やレスリング、ボクシング、テコンドーなどの格闘技やサッカー、野球などの団体球技で上位につけることが多かった。 しかし、2000年代にはゴルフのような個人競技、キム・ヨナ選手に代表されるフィギュアスケートなど、いわゆる「先進国型のスポーツ」でも世界的に活躍する選手を輩出するようになった。 また、アジアの選手が好成績を出すのは難しいとされる男子水泳自由形では、朴泰桓(パク・テファン)選手が08年北京五輪で金メダルを獲得した。 sjp@yna.co.kr
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