【ソウル聯合ニュース】第2次世界大戦後、東西冷戦下で朝鮮戦争が起こり、朝鮮半島は南と北に真っ二つに分かれた。韓国は資本主義市場経済、北朝鮮は社会主義計画経済という異なる体制を選択し、別々の道を歩み始めた。 南北は現在、250キロに及ぶ軍事境界線で隔てられている。1953年に朝鮮戦争の休戦協定により設けられた休戦ラインで、軍事衝突を防ぐための緩衝地帯として、休戦ラインの南側と北側にそれぞれ2キロ幅の非武装地帯(DMZ)が設定された。◇東西冷戦下から残る唯一の分断国家 第2次世界大戦で敗戦したドイツは分割統治を経て東西に分裂した。それから45年、東西冷戦の象徴だったベルリンの壁が旧ソ連の改革と東欧革命の流れの中で崩壊すると、翌1990年10月に統一された。 アラビア半島では南北に別れていたイエメンが1990年5月に統一を宣言。これにより、東西冷戦下からの分断国は朝鮮半島だけとなった。 朝鮮半島の分断は、1945年8月15日に日本による植民地支配から解放されると同時に始まった。敗戦した日本が引き揚げ、南から米軍、北からソ連軍が進駐し、北緯38度を境界とする38度線が生まれた。当初は米ソの軍事的な目的で一時的に設定されたものだったが、朝鮮戦争を経て「70年分断」という民族の悲劇を生んだ。 1953年7月27日、朝鮮戦争の休戦協定が結ばれ、38度線は休戦ラインとなった。実際には西側が38度線より下、東側は上に画定した。休戦協定の議論が進む間も、少しでも多くの領土を獲得しようと南北が激しい戦闘を繰り広げた結果だ。 その後、韓国はクーデターと軍事政権、権威主義体制、民主化と変遷しながら、経済的に大きな飛躍を遂げた。北朝鮮は金日成(キム・イルソン)主席(1994年7月8日死去)から金正日(キム・ジョンイル)総書記(2011年12月17日死去)、金正恩(キム・ジョンウン)第1書記という3代世襲の体制を固めた。◇緊張と緩和を繰り返す南北 南北関係は緊張が高まっては緩和されるという状況が繰り返されている。 1970年以前は北朝鮮の武装ゲリラが頻繁に出没し韓国社会を不安に陥れた。1968年1月に金新朝(キム・シンジョ)率いる部隊がソウル市内まで侵入し青瓦台(韓国大統領府)を奇襲しようとしたが、襲撃が未遂に終わる事件が発生した。同年11月には、遊撃隊の活動と民衆蜂起の拠点にしようと東海岸の蔚珍・三陟に上陸した北朝鮮の120人の武装工作員が韓国軍などにより掃討された。 その後も、南北の緊張が戦争寸前というところまで達する危機的な状況が何度かあった。1976年8月18日、板門店の共同警備区域内で国連軍側が視界を遮るほど生い茂ったポプラ並木を刈り込もうとして、北朝鮮軍に米国人将校2人が殺害された。1983年10月9日、北朝鮮がビルマ(現ミャンマー)訪問中の全斗煥(チョン・ドゥファン)大統領の暗殺を狙ったラングーン事件では、17人の韓国高官や随行員が死亡した。1987年11月29日には大韓航空機爆破事件が起きた。イラクのバグダッドからソウルに向かっていた大韓航空の旅客機が北朝鮮の工作員によって飛行中に爆破され、乗客95人と乗務員20人が全員死亡した。北朝鮮はこの事件でテロ支援国家に指定された。 北朝鮮の武力挑発は続いている。最近では2010年3月の韓国海軍哨戒艦「天安」撃沈事件、同年11月の韓国・延坪島砲撃事件で一気に緊張が高まった。 また、北朝鮮は2003年に核拡散防止条約(NPT)を脱退。2006年と2009年、2013年に核実験を敢行し、世界を震撼させた。 その一方で、緊張を和らげようとする努力も続けられた。 南北分断で引き裂かれた離散家族の再会は緊張緩和に大きく役立った。1985年に南北離散家族の故郷訪問と芸術公演団のソウル・平壌相互訪問が行われた。それから15年後、2000年8月に初めて実現した離散家族の再会行事は、2014年2月まで計19回、不定期に行われた。離散家族が映像を通じ安否を確かめ合うビデオレターも、2005年8月から2007年11月まで7回にわたり交換された。 しかし、南北関係改善の糧となる離散家族再会行事の定例化は、韓国政府が北朝鮮に要請しているものの実現に至っていない。 韓国の財閥、現代グループ創始者の鄭周永(チョン・ジュヨン)名誉会長の訪朝も緊張緩和の一助になった。鄭氏は1998年、通行も不自由だった陸路を500頭の牛を引き連れ訪朝し、国内外の関心を集めた。北朝鮮で金正日(キム・ジョンイル)総書記と会談し、金剛山観光開発の議定書を採択して同観光を通じた南北経済協力の土台を築いた。 政治、経済面をみると、韓国と北朝鮮は2000年と2007年の2回、首脳会談を開催し、南北協力事業として北朝鮮・開城工業団地が造成され、韓国企業が進出した。北朝鮮に対する人道的な物資支援も行われた。世界卓球選手権に南北統一チームで出場するなど、スポーツ交流も緊張緩和と協力、和解に寄与したと評価される。◇統一に対する見解の隔たり依然 1960年代以前にも南北間の会談、協議は断続的に開かれていたが、東西冷戦の影響で活発とはいえなかった。南北会談が頻繁に行われるようになったのは、冷戦の緊張緩和が進んだ70年代以降だ。しかし、赤十字や高官級、国会、軍事、経済、スポーツなど各分野の会談にもかかわらず、実質的な成果を伴うものではなかった。 北朝鮮は韓国を革命戦略の対象と認識し、韓国は政権安保から南北問題に取り組むという面があったためだ。海上から勢力を伸ばすシーパワーの米国・日本、陸上で勢力を伸ばすランドパワーの中国・ロシアが鋭く対立する国際的な力学関係、朝鮮半島の地政学的な面も、南北会談の成果が上がらなかった一因に挙げられる。 それでも南北が合意し統一へのロードマップを提示するという歴史的な足跡も残した。その代表が1972年7月4日に発表された南北共同声明と2000年6月15日の南北共同宣言だ。 共同声明は分断後初めて、南北が統一について合意した声明で、自主・平和・民族大団結の統一3原則、南北調節委員会の構成、直通電話の設置などが盛り込まれた。3原則は統一の基準となったが、南北それぞれの政府が声明を自らの権力基盤の強化に利用しようとしたために、それ以上の進展は見られなかった。 共同宣言は金大中(キム・デジュン)大統領と金正日総書記による歴史的な首脳会談で採択された。統一問題の自主的な解決に合意したという点では、共同声明と軌を一にする部分もあるといえる。また、韓国が提唱する「連合制」と北朝鮮提唱の「低い段階の連邦制」には共通性があると認めた。このほか、離散家族の相互訪問をはじめとする人道的な問題の早期解決、南北協力を通じたバランスの取れた経済発展、社会や文化、スポーツ分野の協力と交流の活性化に関する内容も含まれている。 こうした2回の合意の後も、北朝鮮は韓米の同盟と合同軍事演習を非難し続け、3回の核実験にミサイル発射と、武力的な挑発を繰り返してきた。韓国は北朝鮮に対し核開発の中止を求める一方で、南北交流など人道的な問題の解決に重点を置いている。 このように統一と周辺情勢を見つめる南北間の姿勢の違いは依然として大きく、統一に向けた歩みは分断70年を迎える今も足踏み状態だ。 韓国の梁茂進(ヤン・ムジン)北韓大学院大教授は分断70年の南北関係史を振り返り、葛藤(かっとう)の時間が長く、協力は短かったと評した上で、「南北関係で最も重要なのは深い不信を信頼に転換することだ」と強調する。しかし、南北の両リーダーは光復(日本による植民地支配からの解放)70周年の歴史的な意味に共感しながらも、我が道を進んでいると指摘した。 今後の対応として、韓国が離散家族の再会、北朝鮮が金剛山観光の再開に重きを置いていることを踏まえ、韓国政府はその両方を扱う南北会談を提案するなど大胆なアプローチが必要だと促した。首脳会談開催に向けた特使の交換も考慮すべきだとした。
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