【ソウル聯合ニュース】サムスングループの李健熙(イ・ゴンヒ)会長が来月1日に就任25周年を迎える。
 李氏は創業者の父、李秉チョル(イ・ビョンチョル)氏が死去してから12日後の1987年12月1日にグループの会長に就任した。その後25年間で10兆ウォン(現在のレートで約7600億円)に満たなかったグループの売上高を約39倍の383兆ウォンに成長させた。
 米コンサルティング会社のインターブランドが毎年発表している世界企業ブランド価値ランキングで、同グループは今年9位にランクインした。グループの主力であるサムスン電子は年々業績を伸ばし、韓国の経済発展に大きく貢献している。
◇事業構造の改編
 李会長は経営権を握った1990年代、グループの主要事業を分離する作業に着手した。当時サムスンは、グループの所有と経営体制を明確にした上で付加価値の高い事業に集中するための戦略だと説明した。
 そのため91年11月には新世界と全州製紙、93年6月には第一製糖がサムスンから事実上分離された。その後、サムスンは電子・重工業・化学などの主力事業と、これらを支える金融・情報サービス事業とにグループ構造を再編した。
◇新経営宣言
 次に着手したのは変化と革新を強調するグループの体質改善だ。
 93年にドイツ・フランクフルトで「グローバル時代に合わせ変わらなければ永遠に二流だ。妻と子ども以外は全部変えよう」と発言した、いわゆる新経営宣言には李会長の強い意志が現れている。
 しかし、これといった変化が見えなかったため2年後、150億ウォン相当の不良無線電話機を焼却しサムスンの根本的な体質改善をあらためて強調した。当時サムスン電子の無線電話機事業部は品質が不十分なまま製品の販売を推し進め、不良品率11.8%という結果を招いた。一度失った信頼はなかなか回復せず、不良品の焼却セレモニーまで行った。
 市場の反応は素早かった。94年、韓国内で4位だったサムスンの無線電話機は、1年後は市場の19%を占めシェア1位になった。
 90年代半ばはサムスンの携帯電話が爆発的なヒットとなった。当時世界市場でシェア1位だった米モトローラは、唯一韓国では1位になれなかった。サムスンの携帯電話人気は現在の同社スマートフォン(多機能携帯電話)「ギャラクシーS」などのモバイル機器につながっている。
 モバイル機器による純収益はグループ全体の40%に肉薄し、グループの稼ぎ頭になっている。
◇先見の明で半導体事業へ
 李会長は74年、私財を投じ破産寸前だった韓国半導体を買収した。経営陣からは「テレビもろくに作れないのに半導体事業など可能性はあるのか」と反発を受けた。しかし先端技術産業への進出がサムスンの生き残る道だと確信し、先行投資を決めた。82年には李秉チョル会長からの支援も引き出し、半導体研究所を設立した。
 判断は正しかった。92年、サムスンは世界初の64メガDRAM(記憶保持動作が必要な随時書き込み読み出しメモリー)を開発し、業界の強者になった。
 その後20年間、サムスンは半導体メモリー市場において世界1位の座を譲っていない。
◇25年間で売上高39倍に
 変化と革新を通じ、この25年間でサムスンは飛躍的な成長を遂げた。
 売上高は9兆9000億ウォンから今年は384兆ウォンになることが見込まれ、約39倍の成長となった。輸出額は63億ドル(約5183億円)から今年1567億ドルとなる見通しで、約25倍伸びた。時価総額は87年の1兆ウォンから今年10月末基準で303兆2000億ウォンに増加した。世界での雇用人員は10万人から42万人に増えた。系列企業も非上場社を含め17社から81社に増加した。これは新世界などすでに分離された企業を除いた数字だ。
 インターブランドは今年、サムスンのブランド価値が世界9位となる329億ドルと発表した。昨年よりも8ランクアップし、初めてトップ10に入った。
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