津波から逃れたものの、日本人の妻を失った金日光さん=15日、仙台(聯合ニュース)
津波から逃れたものの、日本人の妻を失った金日光さん=15日、仙台(聯合ニュース)
【仙台15日聯合ニュース】「津波がどれほど恐ろしいか、経験したことがない人には分かりません。妻を助けようと抱きしめたけれど、もう…」――。
 日本観測史上最大の地震と津波のなか、日本人の妻を失った韓国人被災者、金日光(キム・イルグァン)さんが、地震発生から4日が経過した15日、聯合ニュース記者に自身の体験を語った。金さんは、多くの住民が津波の犠牲となった宮城県仙台市蒲生地区に住んでいた。
 1975年生まれの金さんは、1998年に仙台で先輩の仕事を手伝うため、京畿道・楊州の家を離れ渡日した。7年前に職場で出会った日本人女性と結婚。小学校1年生の娘と、1歳になる男女の双子、3人の子どもをもうけ、昨年は蒲生地区にマイホームを構え、幸せな家庭を築いた。

 金さんの自宅は、海辺から1キロメートルほど離れた地点。地震発生の11日は、子どもたちを海側から遠く離れたところにある幼稚園に預けた金さんは、午後4時から仕事に出る準備をしていた。午後2時46分ごろ最初の地震が起きたとき、家から5分ほどの場所にある工場に働きに出ている妻をまず心配した。
 直後に工場に駆けつけたが、工場長の指示でほかの従業員らと避難していた妻と合流することはできなかった。この時までは、「日本は地震に慣れているから大丈夫だろう」と考えていた金さんだが、しばらくして急ぎ帰宅してきた妻を迎えに出たとき、おかしな感じがしたという。
 「突然、ザーッという音が聞こえ、遠くから何かが押し寄せてくるのが見えました。次の瞬間、妻の手を取り近くの小学校(3階建て)に向かって走りました」。
 津波に追いつかれたのは、学校の階段に到着する直前、体育館付近を走っていたときだった。とっさに妻を抱きしめたが、離れ離れになってしまった。金さんは気がついたときには水の中にいて、重くなっていくダウンジャケットと長靴を脱ぎ、ようやく水面に顔を出すことができた。7~8メートルの高さの水面上に、再び押し寄せる波が見えた。
 金さんは、体育館のバスケットボールのゴールポストにつかまり、数時間、そこで耐えた。体育館を出て学校に避難したが、妻の姿を見つけることはできなかった。住んでいた町に残っていた建物は、小学校だけだったという。

 子どもたちは地震の翌日、9時間かけ訪ねて来た妻の両親が、岩手県久慈市に避難させてくれた。電話が繋がらず、感謝の言葉を伝えることもできなかった。金さんは自衛隊病院で治療を受けた後、仙台総領事館に身を寄せた。
 顔と手に傷が残る金さんは、妻とのつらい別れにも「それでも手を取り合って最後の瞬間をともにできたから…」と気丈に語った。頭の中は、子どもたちとこれからどう生きていくかでいっぱいだという。「自分が生かされたことには、何が意味があるのだと考え、子どもたちのためにも元気を出して生きていきます」と話した金さんの両の目からは、涙が流れていた。

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