2000年12月、ノーベル平和賞授賞式に出席した金元大統領(右)=(聯合ニュース)
2000年12月、ノーベル平和賞授賞式に出席した金元大統領(右)=(聯合ニュース)
【ソウル19日聯合ニュース】韓国民主化と南北関係の歴史は、金大中(キム・デジュン)元大統領抜きには語れない。1954年の政界入りから50年以上、この2つに取り組んできた金元大統領は、歴史家はもちろん後世の人々の口にも上る痕跡を残した。
 このため、金元大統領が残した足跡をめぐっては相反する評価が続きそうだ。金元大統領は1960年代に「40代旗手論」を唱え、大韓帝国末に生まれた野党第1世代を押し出し世代交代の先頭に立った。朴正熙(パク・チョンヒ)政権に対抗し「反民主対民主」の構造を作り出し、消えていた民主化への熱望に火をつけた。
 東京で拉致された金大中事件をはじめとする「十月維新」以来5年半の投獄、3年余りの亡命、6年半の自宅軟禁、新軍部による死刑宣告などは、金元大統領個人に降りかかった試練だが、韓国民主化の「滋養分」として作用した。1998年には憲政史上初の政権交代を成し遂げ、ようやく「民主化完成期」の道を整えた。人権法や腐敗防止法、民主化運動関連者の名誉回復・補償法などを通じ、民主化、ひいては人権国家の体裁を備えた。
 しかし、民主化の先駆者だった金元大統領も、地域対立の根深いわなからは抜け出せなかった。金元大統領が地域対立の恩恵を受け、さらに固着化させたとの見方もある。
 1987年に大統領選挙を控え、当時の金泳三(キム・ヨンサム)大統領候補との候補一本化に失敗するや、急ぎ平和民主党を結成し出馬したことをはじめ、金元大統領の大統領選挙挑戦の歴史は、慶尚道と全羅道の葛藤(かっとう)の歴史とも呼ばれる。大統領在任中、途絶えることのなかった特定地域出身者の重用論争、政界戦争と告発、対立と反目、政権内部の葛藤、政策の乱れなどは、民主化の痕跡の一部を消したといえる。
 韓国現代史に民主化という新しい流れを作った金元大統領は、太陽政策を通じ、南北関係にも新たな夜明けをもたらした。敵対関係の構図を壊し、和解・協力という解法を提示した。
 太陽政策のなか、1998年11月の金剛山観光に続き、金剛山陸路観光が始まり、京義線鉄道連結や開城工業団地の建設も進められた。その頂点となるのが2000年6月に平壌で行われた史上初の南北首脳会談で、これに対する国際社会の評価が、同年末のノーベル平和賞受賞だった。
 しかし、政権末期の対北朝鮮送金事件や北朝鮮核問題などが、太陽政策に影を落とす。こうした問題は、政策継承の是非をめぐる深刻な国論分裂の様相ももたらした。核実験をはじめとする北朝鮮の挑発行為が続いている現状は、金大中政権で始まった無条件支援の結果だとの批判も噴出している。
 一方、金元大統領は通貨危機で国家不渡りの危機に直面した韓国を正常軌道に乗せるという成果も上げた。国際通貨基金(IMF)の支援金を当初の計画より3年早い2001年に全額返済し、外貨準備高を40億ドルから1000億ドル以上に拡充しただけでなく、企業、金融、公共、労働の4部門に大幅にメスを入れ、経済体質を改善した。2002年のサッカー韓日ワールドカップ(W杯)、釜山アジア競技大会など、全世界が注目する国際行事を成功裏に開催したことも業績のひとつだ。
 だが、2人の息子を含む側近による権力型不正事件は、政権の道徳性に致命的なダメージを与えた。また、2001年の金鍾泌(キム・ジョンピル)元首相との連合崩壊は、政権の推進力を低下させた。
 さらに、クレジットカード乱発で雪だるま式に膨らんだ個人負債、不動産投機の狂風、「ベンチャーバブル」という副作用など、経済面の暗礁を後の政権に残したことも金大中政権の過ちであり、限界だったと指摘されている。

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