【ソウル19日聯合】第17代大統領選挙を当選を確実としたハンナラ党の李明博(イ・ミョンバク)氏は、屈曲の多い大韓民国の近・現代史とともに歩んできた。多くの60代がそうであるように、日帝植民地時代と独立、朝鮮戦争と自由化、軍事独裁政権と産業化、民主化と世界化に続く激動の波を乗り越えてきた。苦難と奇跡の歩みは、「神話」とも評されている。
 李氏は日帝占領下、1941年に日本の大阪で生まれた。貧しさのため中学入学当時から露店商などで生活費と学費を稼いだ。大学時代には、韓日会談反対闘争(6・3事態)の首謀者として、西大門刑務所に6か月服役した。そうした人生が逆転するのは、現代グループ創業者の故鄭周永(チョン・ジュヨン)名誉会長に出会ってからだ。

 大学卒業後に現代建設に入社し、2年と経たずに代理に昇進した李氏は、29歳で理事に、35歳で社長に上りつめ、その後最長寿CEO(最高責任者)という記録を築く。「サラリーマン神話」と呼ばれるまでになった李氏だが、1992年に、当時新韓国党代表でのちに大統領になる金泳三(キム・ヨンサム)氏から公認推薦を得て、第14代総選挙に出馬、政界に進出した。

 しかし、企業家・李明博にとって政治は生易しいものではなかった。1995年にソウル市長選出に向けた党内選挙に出馬したが敗北、翌年の総選挙には当選したものの選挙法違反で起訴された。この渦中の1998年に再びソウル市長の座を狙い党内選挙に挑んだものの、選挙法違反の裁判が終わらず、議員職を辞して米国に渡った。

 1999年末に帰国後、当時としては珍しかったインターネットバンキング事業を始めた李氏は、このときBBK疑惑の中心人物、金敬俊(キム・ギョンジュン)氏と会う。意欲的に新たな事業を起こそうとしていたところに金氏が金融当局の調査を受けたため、李氏は事業関係を清算。2002年に3度目の挑戦でソウル市長に当選した。

 ソウル市長として4年の任期の間、清渓川の復元、公共交通システムの改編、ソウルの森造成などで株を上げ、今年、第17代大統領選に挑戦状を叩きつけた。多数の反対を受けた清渓川復元と公共交通システム改編などを成功させたことで強力な推進力を市民に印象付けた李氏は、保守政党所属でありながら、「実践する改革者」というイメージを築き上げ、理念、年齢、階層、地域にかかわらず幅広い支持を受けた。

 「経済大統領」「国家CEO」をスローガンに1年以上にわたり世論支持率トップを維持してきたが、青瓦台(大統領府)に向かう道は、その人生の逆転ほどに険しいものだった。長くはない政治経験に、栄誉と恥辱が混在していたのも事実で、政党史上最悪の激しい党内選挙と汎与党勢力との検証攻勢を耐え抜いた李氏だが、青瓦台(大統領府)の主となるには障害は大きいと指摘されてきた。大韓民国のために身を投じて働く、5年間死ぬ覚悟で働きたいと叫んだ李氏は、サラリーマン神話、清渓川神話に続き、大統領選神話を成し遂げた。
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