1980年5月18日に発生した光州事件(光州民主化運動)で、当時の全斗煥(チョン・ドゥファン)保安司令官が軍の「自衛権発動」を主張していた事実が明らかになった。

国防部過去史真相糾明委員会は24日、全保安司令官が軍の実権を掌握した1979年12月12日の軍事クーデターから新軍部による政権獲得過程、1980年5月18日の光州事件発生などに関する調査結果報告書を発表した。

当時、全保安司令官が軍首脳部会議で自衛権発動を主張したという事実は、保安司令部(現国軍機務司令部)に保存されていた第2軍司令部作成の文書に記されていた。また、別の手記では会議場所と時間は明記されていないが、当時の周永福(チュ・ヨンボク)国防部長官、全斗煥保安司令官、盧泰愚(ノ・テウ)首都警備司令官のほか、陸軍総長、第2軍司令官、特殊戦司令官、陸軍士官学校長らが参席していたとある。特に文書には「全閣下:哨兵に対し、乱闘時には軍人服務規律に基づき自衛権発動を強調」と明記されている。

当時の陸軍総長秘書室が作成した「証言参考資料」にも、5月18日の事件に関する各種事項を決定するに当たり、「長官、合同参謀議長、連合司令部副司令官、保安司令官、首都警備司令官らが数度の会議を行い、十分な事態と状況の分析と対策を検討した」と記録されており、全保安司令官が中核的役割を担っていたことを示唆している。

しかし、「蜂起した市民が占拠する全羅南道庁への発砲を最終命令した人物はだれか」という事件の争点については、軍内に関連文書がなく、全氏をはじめ関係者らが陳述を忌避したため、糾明されなかった。糾明委員会は、広範囲にわたる調査でも、直接発砲を命じた文書は発見できず、発砲命令系統を正確に説明する陳述を確保することもできなかったと、真相究明の限界を認めた。

委員会関係者は、発砲命令者は推測できるとしながらも、物証がなく実名を挙げることはできないと話している。報告書作成過程でも、その名を明記するか否かをめぐり激論が交わされたと伝えた。

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