『宮廷女官 チャングムの誓い』ではパク・ジョンスクが文定王后を演じた
『宮廷女官 チャングムの誓い』ではパク・ジョンスクが文定王后を演じた
これまで朝鮮王朝の「3大悪女」と「3大妖女」を紹介してきました。最後は「朝鮮王朝の3大極悪女」を取り上げます。その3人は、11代王・中宗(チュンジョン)の三番目の王妃の文定(ムンジョン)王后、21代王・英祖(ヨンジョ)の二番目の王妃の貞純(チョンスン)王后、23代王・純祖(スンジョ)の正室だった純元(スヌォン)王后です。


■大変な権限を持った王族の長老女性

 朝鮮王朝時代の王妃は、国母(クンモ)と呼ばれました。文字通りのトップレディですが、今の大統領夫人よりも目立つ存在でした。

 なぜなら、王が亡くなった後に自分の息子が王になるからです。王の母親や祖母ともなると、大変な権限を持っていました。もし王が未成年であれば、垂簾聴政(すいれんちょうせい)という摂政を行ない、自分の意のままに政治を操ることも可能でした。そこに「極悪」が生まれる下地があったのです。

 最初の文定王后について。

 彼女は中宗の三番目の王妃です。中宗の二番目の王妃が産んだ息子が長男の仁宗(インジョン)です。しかし、その王妃は産後すぐに亡くなりました。そこで、中宗は再婚して文定王后が仁宗の継母になりました。

 彼女は最初こそ仁宗を可愛がっていましたが、自分も中宗の息子を出産しました。お腹を痛めて産んだ子を王にしたいと思った途端に、仁宗が邪魔になってきて、やがて文定王后は仁宗の暗殺を狙ったりしました。

■恐ろしい継母

 1544年に中宗が亡くなった後、仁宗が12代王として即位しますが、わずか8か月で世を去ってしまいます。文定王后が仁宗に渡した餅に毒が盛られていたと言われています。朝鮮王朝27人の王の中で、6人に毒殺疑惑があるのですが、仁宗が一番毒殺された可能性が高いのです。

『朝鮮王朝実録』にも、無理に文定王后が仁宗を呼んで、餅を食べさせる場面があります。その餅に毒が盛られていたとすれば、文定王后はなんと恐ろしい継母でしょうか。

 仁宗の死によって、文定王后は自分が産んだ息子を王に就けることに成功します。仁宗に子供がいなかったからです。

 こうして即位したのが13代王・明宗(ミョンジョン)です。

 明宗はまだ未成年でしたので、文定王后が垂簾聴政を行ないました。このとき、朝鮮半島は長い凶作が続き、餓死する人が多かったのです。しかし、文定王后は政治の責任者でありながら、何の手も打たずに民を見殺しにしました。

 実際に、何万人も餓死しています。さらに、文定王后は自分の一族で利権を独占して、政治が腐敗しました。

■『チャングム』でも描かれた毒殺疑惑

 文定王后は熱心な仏教徒でした。当時の朝鮮王朝は儒教を崇拝して仏教を迫害していましたから、文定王后は国の教えに逆らって仏教を信奉していたことになります。そればかりか、怪しげな僧侶と肉体関係があったと言われていますから、自分のやりたい放題だったのでしょう。

 こういう人に限って最後は悲惨かと思いきや、絶頂のまま世を去るという幸せな一生を送りました。1565年に文定王后が亡くなり、息子の明宗がようやく自分の政治を行なえるようになったのですが、それまで散々文定王后に苦労させられたツケがまわったのか、明宗は1567年にあっけなく亡くなってしまいます。息子が母親に生気を吸い取られた、としか言いようがありません。

 文定王后は『宮廷女官 チャングムの誓い』にも出てきますが、そこではかなりいいイメージで描かれています。ただし、仁宗がまだ子供のときに、チャングムに対して「体が弱いから楽にしてあげて」と、いかにも「殺してくれ」みたいな言い方をしています。チャングムは、言葉の意味がわからなかったのですが、文定王后の側近が「殺すということよ」と明確に言って、チャングムは驚いて王宮から逃げ出してしまいました。いわば、あの傑作時代劇でも文定王后の暗殺疑惑をしっかり描いていたわけです。

■正祖を毒殺したという疑惑

 貞純王后も韓国時代劇『イ・サン』に出てきたときは、かなり重要な役割でした。彼女は21代王・英祖(ヨンジ)の継妃でした。

 この英祖は、朝鮮王朝の27人の歴代王の中で一番長生きしました。80代まで生きたのは彼しかいないのです。最初の正室を亡くしてから、還暦を過ぎて10代の貞純王后と結婚しました。年は、祖父と孫ほど離れていました。

 貞純王后はとても頭が良く、王妃を選抜するときにあまりに頭脳明晰なので周りがびっくりした、と言われているほどです。英祖も貞純王后の才気に惚れ抜いたようです。

 1762年に英祖が息子の荘献(チャンホン)を米びつに閉じ込めて餓死させるという事件が起きます。荘献の素行の悪さが原因ではあるのですが、貞純王后が英祖と荘献の仲か悪くなるように仕向けたという説が根強くあります。

 当時の政権は老論(ノロン)派という派閥が政治の主導権を握っており、貞純王后は老論派でしたが、荘献はむしろ老論派に批判的でした。それが原因で荘献は老論派に陥れられたと言われていて、貞純王后もその陰謀に加担したと見られています。

 その末に悲惨な死に方をした荘献。その息子が22代王・正祖(チョンジョ)です。韓国時代劇『イ・サン』の主人公になった名君です。

 正祖が1800年に亡くなったとき、貞純王后は側近たちをみんな病床から下がらせて、自分1人で正祖の最期を看取りました。ここから毒殺したのではないかという噂も出ました。なぜかというと、貞純王后は正祖の即位を阻止しようとした女性であり、正祖が亡くなったことによって一番得をしたからです。

 正祖の後は息子の純祖(スンジョ)が継ぎましたが、わずか10歳で即位しましたので、王族の最長老である貞純王后が垂簾聴政をしました。以後、貞純王后は正祖が進めていた改革をすべて潰してしまいました。

 1804年、純祖が一人前になったときに貞純王后は垂簾聴政を終えて隠居し、翌年の1805年に世を去っています。

■国を犠牲にした大罪

 純祖の正室だった純元王后。彼女は純祖の優柔不断な性格を逆手にとり、自分の一族である安東(アンドン)・金(キム)氏にすべての政治権力を集中させます。このように王の外戚が仕切る政治を「勢道(セド)政治」と言いまして、それによって朝鮮王朝の政界が腐敗しました。

 純元王后は1856年に世を去るまで50年も女帝として権力をふるって、朝鮮王朝が衰退する原因を作りました。当時は欧米列強がアジアに押し寄せて弱肉強食の激動期でした。そのときに一族の利益だけを優先させる片寄った政治が半世紀も続いたのは朝鮮半島にとって不幸でした。しかし、純元王后自身はすべての望みをかなえて満足した形で一生を終えています。

 文定王后、貞純王后、純元王后……彼女たちは権力を悪用して多くの人を死に至らしめました。そんな張本人がみんな安らかな最期を迎えているのです。あまりに皮肉なことと言わざるをえません。

 朝鮮王朝では男尊女卑の風潮が強かったのですが、儒教の最高の徳目は「孝」をつくすことです。これは、王でも必ず守るべき道です。朝鮮王朝の王家においても長幼の序が厳格に守られていて、王は王族の長老女性に孝行をつくしました。逆に言うと、「孝」という道徳観に守られて、大妃(テビ/王の母)と大王大妃(王の祖母)の立場はとても強かったのです。

 それを利用して政治をないがしろにしたという意味で、文定王后と貞純王后の罪はとても大きいと思います。また、19世紀に入って世界が激動している中で一族と実家の繁栄のみを考えて国を犠牲にした純元王后も大罪をおかしています。

 そういう意味で、同じ悪女でもこの3人は「極悪」であり、私利私欲で暗躍した他の悪女とは悪影響が桁違いだったのです。

文=康 熙奉(カン ヒボン)

出典=電子書籍版『康熙奉講演録』
(ロコレ提供)

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