韓国のカン・チャンイル(姜昌一)駐日大使は6日、岸田文雄新首相について言及していた。「岸田首相は外相を長く務め、外交で対話の重要性を強調してきたため、高官級対話などを通じた韓日関係改善に開かれた立場だ」と述べる一方、今後の日韓関係について「急激な変化は当面の間は期待しにくい」と述べた。

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これに先立ち、ムン・ジェイン(文在寅)大統領は4日、岸田首相に就任を祝う書簡を送った。ムン大統領は書簡で「韓日関係を未来志向的に発展させるために共に努力していきたい」との意思を示した。

そんな中、元徴用工(募集工)問題をめぐり、革新系執権与党「共に民主党」の議員と、元徴用工(募集工)訴訟を担当する弁護士から事態の進展に向けた提案が相次いで示された。

韓国紙・中央日報によると、「共に民主党」のイ・サンミン議員は、6日に開かれた韓国国会外交統一委員会で「韓日関係は最悪だが、強制徴用と慰安婦賠償判決に関して韓国がリーダーシップを見せ、韓国政府が代位弁済するのはどうか。これを通じて韓国の自尊心も守られ、韓日間でこじれている問題も解決できる」と述べた。

韓国政府が先に被害者に賠償し、後から日本企業に請求するという提案で、これに対し、外交統一委員会に出席したカン駐日大使は「良いアイディアだ。韓国政府もこれを一つの案として検討していると承知している」と述べたという。

カン駐日大使は駐日大使に内定した際にも日本メディアのインタビューに対し、「韓日が互いの名分を立てられる解決策を模索しなくてはならない。方法はいろいろある」と述べた上で、「代位弁済」の案にも言及していた。

代位弁済の案は、2019年にもムン・ヒサン(文喜相)韓国国会議長(当時)が提案したことがある。ムン議長は日韓の企業と個人から寄付金を募って基金を創設し、日本企業による賠償の代わりに基金が元徴用工(募集工)に支給金を払うことを提案。しかし、原告の元徴用工(募集工)から反発が上がり、実現することはなかった。

一方、元徴用工(募集工)訴訟を担当するイム・ジェソン弁護士は、「岸田新首相への提案」と題した7日付のハンギョレ新聞への寄稿で、「代理人の一人である私の個人的な意見」と前置きした上で、元徴用工(募集工)問題に関して提案をした。

具体的には、(1)元徴用工(募集工)と日本企業との間で最低3回以上の協議を行う(2)協議中には、現在進められている現金化手続き及びさらなる資産差し押さえなどを停止する(3)協議手続きは韓国と日本の政府が保証し、オブザーバーとして参加すること、を挙げている。

イ議員による「代位弁済」の案も、イム弁護士による「元徴用工と日本企業との直接協議」の提案も、日本企業の責任を明確にすることを強く求めている元徴用工(募集工)の了承を得ることが大前提となる。イム弁護士は自身の提案について、前向きな議論が可能であれば、原告の元徴用工(募集工)や支援団体と協議する意向を示している。

日本政府は、韓国側に解決策を示すよう求めていることから、前述のような提案が韓国政府の公式的な解決策として提案されると、日本政府として意思を示す必要はあるだろう。

一方、この解説で「元徴用工」の後ろに「(募集工)」を付け加えているには理由がある。ここまでの記事で「徴用」を「募集」と言い直したとき、責任に対する印象が完全に変わるからだ。徴用だったと主張する4人の原告の訴えで始まった「徴用工裁判」で、4人の立場は「募集」、「官斡旋」、「徴用」のどちらだったのか?

原告側の弁護士であるイム弁護士が自ら2019年、韓国の雑誌「時事IN」に発表した寄稿文を見ると一目瞭然だ。

「シン・チョンス(申千洙)は1926年8兄妹の中、4番目に生まれた。裕福な家だった。飢饉が発生した時、倉庫のコメを取り出し、町の人々に分けてやった事、他の子どもたちは持っていなかったハーモニカを持っていたことは鮮明な記憶だ。シン・チョンスは幼い時、幸せだったと言った」

「父親の金採掘投資の失敗で、16歳のシン・チョンスは1942年、全羅南道から一人で(ソウルに)上京した。喫茶店や飲み屋で仕事を選ばず働き、貰ったお金の半分は実家に送った。1943年、食堂の前に張られていた募集広告を見た。『大阪の製鉄所で2年間の訓練を受けると技術が習得できる。訓練の終了後には朝鮮内の製鉄所に技術者として就職できる。待遇が良く、実家にも仕送りができる』」

「シン・チョンスは直ぐ入社試験を受けた。良い条件が噂になったのか、100人募集に500人が集まった。植民地の若者に、日本に行って技術を学べるとはなかなか糊口の策だった。日本語の能力と親戚の中に独立運動参加者がいないか等の確認を行った後、シン・チョンスは釜山に、釜山から下関に、また大阪に移動した」

「シン・チョンスが記憶する日本製鉄の大阪工場の寮の姿は次のとおりだ。『寮の窓には鉄格子が付けてありました。寮の敷地の出入り口には張り付ける人がいて、夜には鍵が閉められました。勝手に出入りができない場所に入ったと思いました』と恣意で労働を止められない強制労働、つまり奴隷の空間であった」

「1943年9月から始めた仕事も、思ったこととは全然違った。技術を学びに来たが、実際の作業内容はぐらぐら沸わき立たつ溶鉱炉のすぐ前で繰り返して石炭を押し入れることだった。数日に一度、溶鉱炉に熱を送る長さ100m以上の鉄パイプの中に入って掃除をした。最も苦しい仕事だった。熱気が冷めていない鉄パイプの中で、シン・チョンスは脱水するほど汗をかき、石炭の粉塵を飲んだので黒い唾を吐いた。提供される食事の量も絶対的に不足していつも飢えに苦しんだ」

「実家に送金できるとの月給もなかった。日本製鉄は初給料を払いながら、全額を強制的に『郵便貯金』に入れるようにした。通帳とハンコは舎監が保管した。『代金を与えると逃げるから』という理由だった。17歳の青年は自分が死ぬ時までこのお金を返して貰えない事実を知らなかったはずだった」

「シン・チョンスは友だちに逃げたいと話した。数日後、舎監は寮の人を集め、『シン・チョンスが逃げようとした』とし、彼を木剣で叩いた。シン・チョンスの証言だ。『木剣で20回ほど酷く叩かれ、死にそうと思うほどでした』逃げようとした同僚が死ぬほど殴打される光景を見た朝鮮の青年たちに、大阪製鉄所は地獄であった。その地獄は日本の敗亡でようやく終わった」

以上のイム弁護士の寄稿文に、シン・チョンス氏は「徴用工」だったのか、「募集工」だったのか、の答えは出ていると思われる。原告が不幸な過去を経験したのは確かだと思われるが、国家の責任となる徴用と判断するには無理がある。

仮に徴用であったとしても、韓国内の裁判の結果が日本企業の賠償を命じたとしても、1965年の条約により韓国政府が責任をもって補償すべきだ。そのために、日本は当時、国家予算に匹敵する8億ドルを払っていた。

韓国側はそもそも韓国政府が募集工に「代位弁済」して、後ほど韓国政府が日本企業に対して請求を放棄すれば結局は同じではないかと言うだろうが、日本政府はそれに応じようとしない。

イム弁護士はこの寄稿文の題名を「日本製鉄に連れ去られたシン・チョンスの歴史を変えた訴訟記」としていた。時代の背景を考えず、徴用と募集を意図的に混用させ、今の労働基準の物差しを80年前の過去に当てるやり方で歴史を変えたならば、それは本当に「原告のため」になるのか。本当に「韓国のため」にでもなるのか。

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